宗会議員霊断院教務部長千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生
修学中の蓮長(れんちょう)は、目的であった佛法の学習のみにとどまらず、武士の力による新しい国政や、経済の仕組みに始まり、庶民の文化や生活の様子に至るまで、様々なものに興味を持ち、広く見聞していったものと思われます...
蓮長(れんちょう)が鎌倉入りをしてより一年が過ぎた頃、鎌倉にある知らせが届きました。それは隠岐(おき)にて流罪の身となっていた後鳥羽院の崩御(ほうぎょ)の報でした...
鎌倉に入った蓮長(れんちょう)は、まず鶴岡八幡宮を詣でたと言われています...
時は歴仁元(一二三八)年、いよいよ年の瀬も押し迫った鎌倉の町に、清澄よりの長旅を終えた若き学僧の姿がありました。これより足かけ五年に及ぶ蓮長(れんちょう)の鎌倉修学が始まろうとしていたのです...
さて、いよいよ清澄を後にして鎌倉へ向かう蓮長(れんちょう)ですが、諸州遊学の第一歩となる記念すべき旅路も、残念ながらその足取りを記すような記録は何も残されていません。同行の道連れがいたのか、案内人に伴われての行程であったのか、はたまた全くの一人旅であったのか...
さて、前回に引き続きまして、今しばらく寄り道にお付き合いいただきましょう。
蓮長(れんちょう)の鎌倉遊学に際して、その路銀(ろぎん)はいかにして用意できたのでしょうか。また、当時流行の最先端にあった鎌倉諸山の門を叩き、門前払いをされずに受け入れられるには、いかなる後ろ盾があったのでしょうか。よくよく考えれば不思議なことばかりですが、もちろん今となってはその真相を探る手立てなど、残念ながらありません...
清澄山では既に学ぶべきものも尽き、辺国故に訪ね来る師も滅多にありません。向学心旺盛な蓮長(れんちょう)の心は満たされることなく、いよいよ諸国遊学の決意をしたのも当然のことであったでしょう...
前号では修学時代の日蓮大聖人の意外な一面をご紹介しましたが、もちろん念佛に留まらずあらゆる学問を修得していった蓮長にとっては、もはや安房随一の学問所と言われた清澄山でさえ、満たされぬ場所となっていったのです...
わずかに差し込むだけの薄明かりと、言葉を交わす者なき静寂。蓮長(れんちょう)が虚空蔵菩薩の御前にて願を掛けてより、早二十日が過ぎようとしていました。そしていよいよ二十一日目の朝を迎えた時、不思議な光景を目の当たりにしたのです...
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)より智慧の大宝珠を授かってより、いよいよ深き法門を求めて更なる勉学に励む蓮長でしたが、そこには大きな壁が立ちはだかるのでした...
その日、清澄寺のご本尊としてご奉安される虚空蔵菩薩の前には、出家を果たし蓮長(れんちょう)となった若き日蓮大聖人のお姿がありました。蓮長は一つの大きな願いを胸に、虚空蔵菩薩に一心に祈りを捧げていたのです。「我をして、日本第一の智者となし給へ・・・」と...
今回ご紹介した一節は、いつものような日蓮大聖人のお言葉ではなく、かの後鳥羽上皇が流罪先の隠岐にてしたためられたものです。このご文章は、現在大阪は島本町の水無瀬神宮に所蔵され、国の重要文化財にも指定されている大変貴重な古文書です..
清澄山にて学問の一途に勤しんでこられた薬王丸でしたが、いよいよ人生の一大転機となる時を迎えようとしていました
嘉禎三(一二三七)年十月八日、山内では僧侶たちが一堂に会し、厳かなる儀式が営まれておりました。その中心には、兄弟子浄顕房、義浄房に付き添われながら手を合わせ、深く頭を垂れる青年の姿がありました。その日、薬王丸は道善御房を戒師と仰ぎ、髪を下ろして俗世間との別れを告げ、ついに出家者としての第一歩をしるされたのです...
時は嘉禎三(一二三七)年、善日麿が清澄のお山へ登り、薬王丸と名を改めてより早や四年の歳月が過ぎようとしておりました。御歳十六(満年齢では十五)歳、入山当時はまだ幼さの残る稚児も、立派な少年のお姿へとご成長なさっていたことでしょう...
このご文章は、前回ご紹介しました浄顕房にお送りになったものです。これによると、諸国遊学を終え清澄での初転法輪(初めてのお説法)の折、熱心な念仏の信者であった地頭東条景信の怒りにふれ、山を追われることとなった日蓮さまに付き従い、浄顕、義浄のご両師も忍び山を下りられたというのです...
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