日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#027
鎌倉での修学 その四

叡山の三千人かまくらにせめられて、一同にしたがいはてぬ。(中略)今はかまくらの世さかんなるゆへに東寺、天台、薗城七寺の真言師等と、並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人々、関東にをちくだりて、頭をかたぶけ、ひざをかがめ、やうやう(様々)に武士の心をとりて、諸寺諸山の別当となり

撰時鈔

時は歴仁元(一二三八)年、いよいよ年の瀬も押し迫った鎌倉の町に、清澄よりの長旅を終えた若き学僧の姿がありました。これより足かけ五年に及ぶ蓮長(れんちょう)の鎌倉修学が始まろうとしていたのです。

それに先立つこと数年前、嘉禎元(一二三五)年には京都の石清水(いわしみず)八幡宮と奈良の興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こりました。これを見かねた幕府は、六波羅(ろくはら)を差し向けると強権を発してこの争いを鎮圧してしまいました。

鎌倉での修学

寺社の僧兵による強訴(ごうそ)は、長きにわたり時の施政者たちの悩みの種でした。豪腕政治で知られたかの白河上皇でさえ「加茂川の水、賽の目、そして延暦寺の僧兵」だけは「意のままにならざるもの」と嘆いていましたが、幕府の圧倒的な武力の前に、ついに寺社勢力も鎌倉にひれ伏すしかなくなってしまったのです。

そして蓮長が鎌倉を訪れた歴仁元年には、二つの歴史的な出来事が都を賑わしていました。一つは武家によって制定された初めての法典である「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の発布、そして今一つは今や鎌倉のシンボルとも言える「長谷(はせ)の大佛(だいぶつ)」の建立です。これらの出来事は、政治、文化共に、京の都に代わって鎌倉こそが日本の中心となり、あらゆる富や権力が集中していくことを象徴していたのです。

それだけの力を誇りながら、治世は決して安定したものとは言えませんでした。頼朝亡き後の幕府は、将軍職は次第にお飾りとなり、北条家とその他御家人による合議によって運営されていました。しかしその内情を見れば、幕府の要職は己の本分を忘れ、権力争いに明け暮れるばかりのお粗末なものでした。

時の執権であった北条泰時は、前述の通り御成敗式目を制定し、大佛建立に心を砕き、鎌倉諸山あるいは各地の名刹に命じて国家安寧の祈りを捧げるも、人心の乱れは治まることなく、それに呼応するかのように、各地で天災、飢饉が相次いでいました。

何故に佛法をもってしても国の安泰を祈ること叶わず、人々を教え導くことが出来ぬのか・・・、蓮長は大きな疑問を胸に抱き、いよいよ鎌倉での新たなる探求を始めるのでした。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成25年9月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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