日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#028
鎌倉での修学 その五

本地は不妄語の経の釈迦仏、迹には不妄語八幡大菩薩也(中略)遠は三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子也。近は日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子也

諫暁八幡鈔
鎌倉での修学

鎌倉に入った蓮長(れんちょう)は、まず鶴岡八幡宮を詣でたと言われています。

この時のみならず、日蓮さまは八幡大菩薩を法華経の行者の守護神として、殊の外大切になさっていました。後に同所にて「法華経を弘めんとする私を、何故守護し給わぬか」と諫暁(かんぎょう)をなさった有名なエピソードがある程です。それは八幡大菩薩の本地(本体)は久遠のお釈迦さま(寿量ご本佛)であり、私たちを守護する神としてお姿を垂れたのが、八幡さまなのだ、とのお考えに基づくものでした。その守護神の前にて、自身の佛道の成就を祈り、そしてお釈迦さまの本当の教えを見極めるための学問に励むお誓いを立てられたのでしょう。

鶴岡八幡宮は、源氏名流の祖とも言える源頼義(よりよし)が、安倍氏との戦の折、源氏の氏神である石清水(いわしみず)八幡宮を、由比ガ浜の海辺に分社して祀ったのが始まりとされています。頼義直系の子孫である頼朝は、鎌倉入りを果たした時に、源氏再興を祈念して現在の地に遷宮し、氏神にふさわしい姿に大造営をしました。

『貞永式目』の第一条には、「神社を修理し祭祀を専らにすべき」と定められているように、鎌倉幕府は神祇(じんぎ)信仰を武家の心情としたのです。

「八幡宮」と言われるように、現在では専ら神社としてのイメージなのですが、当時は今とは違った奇妙な形式をとっていました。実は鶴岡八幡宮の元の名は八幡宮寺と称し、神道に佛教が混在した神佛両者の正確を併せ持っていたのです。その経蔵には大変貴重な南宋(中国)伝来の大蔵経が納められており、蓮長はそこに入蔵し一切経を閲覧したとされています。これは鎌倉修学期の大変大きな成果の一つと言えるでしょう。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成25年10月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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