日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#019
出家得度のご決意
(その二)

「我は法花経にみちひかれまいらせて、生死をはいかにもいてんする也。たゝし百千に一、この世のまうねんにかゝはられて、まえんともなりたる事あらは、このよのためさはりなす事あらんすらん」

(後鳥羽院置文案文)

今回ご紹介した一節は、いつものような日蓮大聖人のお言葉ではなく、かの後鳥羽上皇が流罪先の隠岐にてしたためられたものです。このご文章は、現在大阪は島本町の水無瀬神宮に所蔵され、国の重要文化財にも指定されている大変貴重な古文書です。

後鳥羽上皇の御身の上につきましては、当初より幾度となくふれさせていただきましたが、承久の乱の咎を受け、隠岐の地へ配流となってより早十六年の歳月が流れ、御年五十八歳(当時としては、かなりのご高齢です)の身での流人生活に、もはや精も根も尽き果て、遂には明日をも知れぬご重篤のお体となってしまわれたのです。

そして人知れずひっそりと果て行く我が身の哀れさを嘆き、縋るような思いで綴られたお言葉が、このご文章なのです。そこには後鳥羽院の切実な思いが込められていました。

「我が身は法花経(法華経)の功徳に導かれて、いよいよこの世を去ることとなるが・・・」との穏やかなる言葉とは裏腹に、「もはやそのような気持ちは残っておらぬが、万が一にも悪霊となって世に障り為すようなことがあれば・・・」と、ご自身の後生に大変な恐れを抱かれるご様子がうかがえます。そして文末には「私が法華経を持ち続けていた功徳は、いまだ我が身に残っているであろう。それを頼りとして弔うてくれるならば、もし怨霊の身に堕ちようとも、後には必ず救われるであろう。どうかそのように供養して欲しい」との切なる願いが示されているのです。

清澄寺ご修学

この何とも切ない置文をしたためられたのが、嘉禎三(一二三七)年八月二十五日のこと。そう、実に薬王丸が髪を下ろされるわずか二ヶ月前のことだったのです。もちろん、以前よりお話し致しました通り、日蓮さまと後鳥羽上皇のご関係は、史実としてはあくまで仮説の域を出るものではありません。まして清澄にて勉学中の薬王丸が、遠く離れた隠岐の院がお書きになった文を目にすることなど、到底あり得るはずもないでしょう。

それでも、四年にわたる勉学を続け遂にご出家を決意されたそのお年と、後鳥羽院が法華経の功徳に後生を託し置文に込められた、まさにこの時の奇妙なる一致に、大変な驚きを禁じ得ません。

父母への孝養を何よりも大切になされた日蓮さまのお人柄を思うとき、御年十六歳でのご出家は、このような不思議な縁によって為されたものではなかろうか、そんな思いがしてならないのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成25年1月号に掲載された内容です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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