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#029
鎌倉での修学 その六

延應元年三月小十七日丁亥。六波羅の使者參著す。去る二月廿二日、隱岐法皇遠嶋に於て崩御す。御年六十。同じき廿五日 葬り奉ると云々

吾妻鏡 第三巻 延應元年三月小十七日丁亥
鎌倉での修学

蓮長(れんちょう)が鎌倉入りをしてより一年が過ぎた頃、鎌倉にある知らせが届きました。それは隠岐(おき)にて流罪の身となっていた後鳥羽院の崩御(ほうぎょ)の報でした。

承久(じょうきゅう)の乱より始まった後鳥羽院の流人生活は、実に十八年の長きにわたるものでした。院は、以前にご紹介しました『後鳥羽院置文』にしたためられたように、ご自身は決して怨霊(おんりょう)となってこの国に仇(あだ)なすようなことはしたくない・・・、と念じておられました。それでも院の蒙った長き流罪のつらさを思えば、その魂は必ずや怨霊となって災いをもたらすであろうと、当時の人々は誰もが恐れおののいたに違いありません。

それを証明するかのように、鎌倉では次々と不思議なことが起こり始めました。

院崩御の訃報を聞いた執権北条(ほうじょう)泰時(やすとき)は、間もなく精神が錯乱し長く苦しむこととなります。続いてその年の暮れには、幕府の重鎮であった三浦(みうら)義村(よしむら)が脳溢血で頓死すると、それから一月ほど過ぎた翌年一月二十四日、執権補佐である連署(れんしょ)の職にあった北条時房(ときふさ)も、早朝に突然発病し、そのまま夜半には急死してしまいました。

泰時はかの有名な信州善光寺に六町六歩(約二万坪)もの水田を寄贈して、縋(すが)る思いで阿弥陀佛に當病平癒(とうびょうへいゆ)を祈願しました。しかしその願いも虚しく、精神錯乱の苦しみが癒えぬまま、仁治三(一二四二)年六月十五日、六十歳にて生涯を終えることとなってしまったのです。

泰時を始めこれらの人々は、皆承久の乱にて活躍をした大将たち、言い換えれば後鳥羽上皇を追い落とした者たちです。鎌倉市中では「次々に起こる災いは、後鳥羽院の怨念に相違ない」と、大いに話題となって広まりました。奇しくも鎌倉にて修学中であった蓮長も、怨霊を恐れる人々の姿や様々な噂話を、当然毎日のように見聞きすることとなるのです。

武士が天皇を追い落とす、言わば子が親を殺(あや)めるような世情の中で、非業の死を遂げていく者たちの姿は、佛法の神髄を掴まんとする蓮長の心に、大変大きな影響を及ぼしたことでしょう。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成25年11月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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