宗会議員霊断院教務部長千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生
伊勢神宮を拝し誓願を立てた蓮長(れんちょう)は、いよいよ清澄寺旭が森にて…といきたいところですが、建長五年の立教開宗までにはまだ数年の年月があるのです。...
蓮(れん)長(ちょう)が故郷を離れて比叡山に入山してより、早十二年の歳月が流れました。既に己が学ぶべきものを学び尽くし、なすべき使命をその胸にはっきりと定めた蓮長は、帰郷の時が近いことを悟りました。そして最後の締め括りとすべく、その足は伊勢大廟へと向かうのです。...
いよいよ諸山巡りも終わりに近付いた蓮長(れんちょう)は、河内にある磯長の叡福寺を訪れました。
叡福寺は聖徳太子が推古二十八(六二〇)年に、自らこの地を墓所と定められたとされる由緒ある寺院です。その翌年には太子のご生母である穴穂部間人皇后が崩御され、この地に埋葬されました。そして推古三十(六二二)年、太子のお妃である膳部菩岐々美郎女、そして翌日には後を追うように太子ご自身が相次いで薨去され、共にこの地に追葬されたといわれています。...
京都に滞在中の蓮長(れんちょう)は、五条付近にあった天王寺屋浄本の屋敷を宿所としたといわれています。天王寺屋浄本は、本屋であったという説が一般的ではありますが、一方で天王寺の役職に就いていたとする説があります。それ故に『本化別頭仏祖統記(ほんげべつずぶっそとうき)』などでは、大聖人が天王寺の秘笥を披くことが出来たのは、この天王寺屋浄本の仲介によるものだとされています。それにしても、学僧として学んでいる時期に既にこれだけの有力者たちが周囲に存在していたことには、いったいどういった伝手によるものなのか、改めてその不思議さに驚かされます。...
円爾(えんに)や蘭渓道隆(らんけい)どうりゅう)を訪ねた後、蓮長(れんちょう)は京の都に滞在したと言われています。
冒頭のご文章は、後に大聖人が佐渡流罪の際に幽閉された塚原三昧堂の様子を記したものです。面白いのは、ここに「落陽の蓮台野のや(よ)うに」という譬えが見られます。...
四天王寺を後にした蓮長(れんちょう)は、次いで円爾(えんに) や蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) を訪ねたと言われています。臨済禅を代表する両師の名は、良観と並ぶ批判対象として大聖人の御書によく登場します。冒頭の御書にあるように、「道隆」はむろん蘭渓道隆のこと、円爾は後に藤原道家より「聖一和尚」の号を授かりますので、「聖一」と記されるのが円爾のことです。...
前回は余談がだいぶ長くなって(と言うより、余談だけで終わって)しまいましたが、今月はようやく本題の四天王寺のお話です。
高野山よりの帰路、和泉へ足を伸ばした蓮長(れんちょう)は、八宗兼学の学問道場として名高い四天王寺を訪れます。八宗とは、三論、実成、法相、倶舎、華厳、律のいわゆる南都六宗の古流学派に、当時としては比較的新興の天台、真言を加えた八つの宗派を指します。...
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