日蓮聖人降誕800年

日蓮宗全国霊断師会連合会

日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生


#046
比叡山での修学 その8
比叡山での修学比叡山での修学

これまで比叡山の惨憺(さんたん)たる状況をお話致しましたが、もちろん叡山修学の十二年間は、蓮長(れんちょう)にとってまったく無益であったわけではありません。むしろ後の日蓮大聖人としての大切な礎を築かれたのが、この比叡山での日々であったといっても過言ではないでしょう。...


#045
比叡山での修学 その7
比叡山での修学比叡山での修学

中古天台期の思想の特徴としては、本覚法門と並び「観心主義」や「口伝法門(くでんほうもん)」がありました。観心主義とは、過去に伝承されてきた教えを学んで悟るのではなく、己の心を観て悟るとするもので、早い話が“閃(ひらめ)き”で悟りなさいということです。...


#044
比叡山での修学 その6
比叡山での修学比叡山での修学

三塔総学頭と称えられた俊範より天台教義の奥義を学んだ蓮長(れんちょう)は、天台本覚法門の神髄に触れ「一切衆生は皆佛である」との確信を強めていきました。しかし俗世の有り様を見れば、民は飢えや病に苦しみ、施政者は己の利権を争うばかりで、とても佛の姿とは思えません。...


#043
比叡山での修学 その5
比叡山での修学比叡山での修学

この御書には「俊範(しゅんぱん)」や「宗源(そげん)」の名が見受けられますが、この両師は共に比叡山の優れた学匠で、同じく『浄土九品之事(じょうどくほんのこと)』などにも、両師の他に正覚法印や西塔円頓房の貞雲法印、また龍証法印などの名が記されています。何れの諸師も当時(年代に多少の前後はありますが・・・)の比叡山において、証義者や探題、学頭といった学問上の要職を務める大変優れた高僧ですが、殊に大和荘法印俊範は、当時の三塔総学頭に任ぜられる程の名僧でした...


#042
比叡山での修学 その4
比叡山での修学比叡山での修学

さて、いよいよ蓮(れん)長(ちょう)の修学のお話に入りましょう。とは申しましても、いつものごとく叡山(=比叡山)で過ごした日々の詳細も、残念ながらあまり知られてはおりません。叡山での十二年に亘る修学の方法については諸説ありますが、大きくまとめるとおおよそ次の三つの説となります...


#041
比叡山での修学 その3
比叡山での修学比叡山での修学

前回までのお話で、比叡山の成り立ちについては粗々ご理解いただけたかと思います。では蓮長(れんちょう)が入山した仁治年間(一二四〇年頃)の叡山は、どのような環境であったのでしょう...


#040
比叡山での修学 その2
比叡山での修学比叡山での修学

引き続き、比叡山延暦寺の成り立ちについて、今しばらくお話を致しましょう。

山門の興隆とともに、比叡山は朝廷との結びつきを次第に強めていきました。比叡山には「護持僧(ごじそう)」と呼ばれる祈祷師が撰ばれていました。護持僧は、祈祷の技法はもちろんのこと、徳にも勝れた高僧が選出され、その大切なお役目として歴代の天皇の一身安堵を祈願し奉るのです。これは朝廷とのつながりを強くする、大変重要な役割でした...


#039
比叡山での修学
比叡山での修学比叡山での修学

ここで改めて蓮長(れんちょう)の学んだ比叡山についてお話を致しましょう。

伝教大師最澄は、延暦七(七八八)年、当地に一条(いちじょう)止観院(しかんいん)と呼ばれる草庵を結びました。これが今に続く比叡山延暦寺の始まりとされ、やがて中央に薬師堂、その左右には経蔵や文殊堂といった様式の伽藍、いわゆる根本中堂(こんぽんちゅうどう)が築かれ、これを総称して比叡山寺と呼ばれていました...


#038
比叡山を目指して(その二)
比叡山を目指して比叡山を目指して

蓮長(れんちょう)の目指した比叡山延暦寺は、琵琶湖を中心とした近江国(現在の滋賀県)に堂宇を構える大寺院です。滋賀と言えば、すぐお隣は帝のおわします京の都、房州からはかなりの長旅となります...


#037
比叡山を目指して
ルイス・フロイス比叡山を目指して

新たなる修学の場を求めた蓮長(れんちょう)が次に目指したのは、当時の日本で最高の権威を誇る比叡山延暦寺でした。言わずと知れた比叡山は延暦七(七八八)年、伝教大師最澄によって開かれた日本天台宗の中心となる大寺院で、大聖人留学時代には壮大な伽藍の中で数千の学徒が佛法を学んでいたとされています...


#036
新たなる修学への道
新たなる修学への道

鎌倉での修学を終え清澄山に戻った蓮(れん)長(ちょう)ではありましたが、いまだその成果に満足をしているわけではありませんでした...


#035
戒体即身成佛義かいたいそくしんじょうぶつぎ
その二
戒体即身成佛義

『戒体即身成佛義』の内容からは、蓮長(れんちょう)が既に法華経の重要な教義、即ち後に日蓮大聖人の教えの中枢となる教義を理解していたことが覗い知れます。しかしながら、それが他のお経に抜きん出て最も素晴らしい教えであるとの結論には、残念ながらいまだ至ってはいなかったのです...


#034
戒体即身成佛義かいたいそくしんじょうぶつぎ
戒体即身成佛義

『戒体即身成佛義』は、蓮長(れんちょう)が鎌倉より清澄へ帰山して間もなくの仁治三(一二四二)年、御年二十一歳にて著述されたものです。以前にご紹介した『授決円多羅義集(じゅけつえんたらぎしゅう)』は、伝書として存在した書物の書写ですので、この『戒体即身成佛義』が大聖人の初めてお書きになった御書となります...


#033
清澄への帰山
清澄への帰山清澄への帰山

仁治三(一二四二)年、清澄のお山には、鎌倉での修学を終え四年ぶりに故郷に戻った蓮長(れんちょう)の姿がありました。房州の片田舎にあって、修行中の身である僧侶たちにとっては、遠い新都の話など滅多に耳に出来るものではありません。帰郷間もない蓮長のもとには、土産話に心躍らせる若い僧侶が、我も我もと押しかけたことでしょう...


#032
鎌倉での修学 その九
鎌倉での修学鎌倉での修学

蓮長は浄土宗の教義の修得と併せ、当時新進気鋭の存在として鎌倉武士の間で流行し始めていた禅についても、積極的に学んでいったと思われます...


#031
鎌倉での修学 その八
鎌倉での修学

鎌倉在中の蓮長(れんちょう)が、何処にて何を学んだのかについては、例によってその詳細を知る術はありません。もちろん天台宗にて出家した学僧ですので、天台系の寺院に身を寄せ学んでいたはずです...


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