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#026
鎌倉での修学 その三

所詮肝要を知る身とならばやと思し故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至まで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習回り候し程に

妙法比丘尼御返事

さて、いよいよ清澄を後にして鎌倉へ向かう蓮長(れんちょう)ですが、諸州遊学の第一歩となる記念すべき旅路も、残念ながらその足取りを記すような記録は何も残されていません。同行の道連れがいたのか、案内人に伴われての行程であったのか、はたまた全くの一人旅であったのか・・・、その辺の事情すら何も分からないのです。

鎌倉での修学

ただ思うに、生まれてこの方房州(ぼうしゅう)の地より一度も出たことのない身で、いきなり不案内な鎌倉まで辿り着くのは至難の業ではないかと思われます。ましてや、まだまだ盗賊や中央支配の及ばない地侍が横行する情勢の中では、十七、八の僧侶が一人旅をするには、あまりに危険が多すぎます。おそらくは何らかの案内人、あるいは旅慣れた同行の学徒が連れだっての旅だったのではないでしょうか。

鎌倉への道程は、大きく二つのルートが予想されます。

まずは陸路ですが、当時はいわゆる鎌倉街道を利用しての旅となります。房州の街道が隅々まで大幅に整備されたのは、江戸との交易が盛んになった江戸時代ごろと言われていますので、きちんとした街道や宿(しゅく)はせいぜい上総(かずさ)の木更津くらいまでで、それ以南にはそれ程便利な道はなかったものと思われます。

清澄からですと養老渓谷を抜けて久留里道で一気に木更津までの山道を行くか、鹿野山道(現在の長狭街道)で東京湾側の富津まで横断し、そこから海沿いを北上したのでしょうか。下総国まで辿り着ければ、あとは京都まで続く東海道が始まりますので、武蔵国を抜け相模国の鎌倉に至ることとなります。このルートですと海沿いに最短ルートで行ってもおよそ五十里(約二百キロ)ほど、現在の東京都のイメージとは違い、当時の武蔵国はほとんどが沼地ですので、実際にはもう少し迂回させられたことでしょう。大変な日数と労力を掛けての旅となります。

今一つは海路を使うルートです。清澄を出て陸路と同じく鹿野山道(長狭街道)、あるいはもう少し南側の街道を西へ向かえば、房総半島の反対側、富浦から富津にかけての東京湾岸まで至ります。そこから相模国、三浦半島へ向けて船で東京湾を横断するのですが、その距離は湾の最も狭い箇所ならば、わずか二里半(約十キロ)ほどです。湾の横断以外の道程を足しても、陸路の半分以下で目的地まで辿り着くことが出来ます。当時よりこの海路は盛んに利用されていたという話もありますので、こちらのルートの方がより現実的だったのではないかと思われます。

いずれにせよ、週末にドライブがてらちょっと鎌倉まで・・・とはいかない時代のお話ですので、大変な思いをしての旅路だったことでしょう。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成25年8月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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