日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#030
鎌倉での修学 その七

国中の上下を誑惑し、代を挙げて念仏者と成り、人毎に禅宗に趣く。存の外に山門の御帰依浅薄なり。国中の法華・真言の学者、弃置せられ了んぬ。故に叡山守護の天照大神、正八幡宮、山王七社、国中守護の諸大善神、法味を喰わずして威光を失い、国土を捨てて去り了んぬ

安国論御勘由来
鎌倉での修学

修学中の蓮長(れんちょう)は、目的であった佛法の学習のみにとどまらず、武士の力による新しい国政や、経済の仕組みに始まり、庶民の文化や生活の様子に至るまで、様々なものに興味を持ち、広く見聞していったものと思われます。後に日蓮さまが檀越(だんのつ)方に与えられたお手紙を拝するに、武家、庶民、男性、女性、そして幼少の者に至るまで、様々な立場の人々に対し、実に当を得た内容をしたためられているのは、こうした実体験をお持ちであったからでしょう。

こと佛法に関しては、諸宗の内でも特に念佛と禅について学ばれたと言われています。当時の鎌倉では、武家や庶民の信仰として念佛(浄土)の教えが広く信仰されていました。また新しい信仰として、禅の教えも台頭し始めていたのです。もちろん以前よりある天台や真言といった密教の勢力もいまだ健在ではありましたが、国家や一族の安泰を祈念するような特権階級向けの信仰から、より庶民的である念佛や禅などの鎌倉新佛教が当時の流行となりつつあったのです。

その上で鎌倉市中を見渡せば、人々の暮らしは決して平穏ではなく、多くの庶民が貧困に喘(あえ)いでいました。また以前ご紹介したとおり、北条氏に関わる人々の非業の死や、仁治二(一二四一)年の大地震による大変な被害など、佛法守護の神々がこの国をお護り下さっているとは思えない惨状を、蓮長は目の当たりにするのです。

そこで「何故に」という疑問が湧いてくるのは、至極当然のことであったでしょう。それ故に、人々が今熱心に信仰している念佛や禅の教えの真義を、まずは学ばんとしたに違いありません。

そしてこの経験こそが、後に日蓮大聖人となられ、旭が森でのお題目始唱、立教開宗を宣言されるに至る、大転機となる道へ蓮長を導いていく事となったのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成25年12月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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