日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#024
鎌倉での修学

生年十二同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりて、遠国なるうへ、寺とはなづけて候へども修学の人なし

本尊問答鈔

このお言葉通り、清澄山では既に学ぶべきものも尽き、辺国故に訪ね来る師も滅多にありません。向学心旺盛な蓮長(れんちょう)の心は満たされることなく、いよいよ諸国遊学の決意をしたのも当然のことであったでしょう。

鎌倉での修学

歴仁元(一二三八)年、十二の頃より五年にわたり修学に励んだお山を後にし、いまだ出会うことのなかった学問や師を求めて、諸国遊学への第一歩を踏み出したのです。出立の時節は定かではありませんが、前回ご紹介した『円多羅義集(えんたらぎしゅう)』の奥書に同年十一月に清澄山内での書写とありますので、恐らくは暮れも押し迫った向寒の中、清澄山を下りられたのではないでしょうか。

蓮長がまず最初に向かったのは、当時政治の中心地となっていた鎌倉でした。頼朝が幕府を開いてより五十年、京の都より遠く離れた東国の地とは申せ、今や政治の中心地となった鎌倉では、都に引けを取らぬほどの様々な文化が花開いていました。

当然のことながら、名だたる高僧も武家の庇護の下に集められ、大陸伝来の新しい学問が次々に伝えられて来るのです。蓮長は希望に目を輝かせながら、一路鎌倉の地を目指したことでしょう。

さて鎌倉に着いた蓮長は・・・、とこのままお話を進めたいところですが、それはまた次回以降に譲りまして、その前にここでいつもの寄り道を一つ。

「諸国遊学」と聞いて、皆さんは何を思われますでしょうか。「そうそう、ここから本格的な佛教の研鑽が・・・」と素直に受け止めたいところですが、ひねくれ者の私などは、「その費用はどこから?」といらぬ勘ぐりをしてしまいます。

より深い学問を目指すならば「遊学」あるいは「留学」と言われて、何も違和感を感じないのは、豊かな現代の日本人ならではの感覚です。当時諸国へ遊学に出るともなれば、まずは目的地までの路銀をいかに確保するかが大変な問題なのです。

もしも旅支度が調えられたとしても、行く先々のお寺や学問所で受け入れて貰うには、これまた大変な力(後ろ盾)が必要なのが当然のこと。

そこにはいかなる秘密があったのか・・・、とても興味深いところですね。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成25年6月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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