日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#017
清澄寺ご修学
その三

本より学文し候し事は佛教をきはめて佛になり、恩ある人をもたすけんと思ふ

(佐渡御勘気鈔)

時は嘉禎三(一二三七)年、善日麿が清澄のお山へ登り、薬王丸と名を改めてより早や四年の歳月が過ぎようとしておりました。御歳十六(満年齢では十五)歳、入山当時はまだ幼さの残る稚児も、立派な少年のお姿へとご成長なさっていたことでしょう。

その間、師道善御房を初めとし、浄顕房、義浄房の両兄弟子より熱心な手解きを受け、佛法は勿論のこと史書、古典、果ては儒学に至るまで、様々な学問を修めていかれました。当然のことながらその修得のめざましさは、幼き頃からの乳母雪女の施した教養も相まって、山内の誰もが目を見張るほどであったと言われています。

清澄寺ご修学

その修学意欲を支えるものは、ご自身の智恵を欲する心であったことは勿論なのですが、決してそれだけに留まるものではありませんでした。以前よりお話し致しました通り、何よりも大切なご両親、ご自身を導いてくれた道善房や雪女、あるいは幼少より様々な支えとなってくれた領家の尼、多くの方々より寄せられた思いを一身に背負い、何としても日本一の知者となり、文字通り「恩ある人を救わん」と願って昼夜にご精進されたことは間違いありません。上文の『佐渡御勘気鈔』には、その思いが強く示されています。そして同鈔の文末には、「恩ある人」である道善房や領家の尼といった方々の名が連ねられているのです。

それ程の決意の上で修学を進める薬王丸は、やがて一つの疑問を抱くこととなりました。それは様々な学問、殊に佛法を学べば学ぶほど、拭いきれぬ大きな大きな疑問として湧き上がって行くのです。

その疑問を胸に抱き、いよいよ薬王丸は人生の大きな転機を迎える決断をするのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成24年11月号に掲載された内容です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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