「民の家より出でて頭をそり、袈裟をきたり。此度いかにしても佛種をもうえ、生死を離るる身とならんと思て候しほどに」
(妙法比丘御返事)
清澄山にて学問の一途に勤しんでこられた薬王丸でしたが、いよいよ人生の一大転機となる時を迎えようとしていました。
嘉禎三(一二三七)年十月八日、山内では僧侶たちが一堂に会し、厳かなる儀式が営まれておりました。その中心には、兄弟子浄顕房、義浄房に付き添われながら手を合わせ、深く頭を垂れる青年の姿がありました。その日、薬王丸は道善御房を戒師と仰ぎ、髪を下ろして俗世間との別れを告げ、ついに出家者としての第一歩をしるされたのです。
時に薬王丸は御年十六歳、その稚児名を改め、僧侶として是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)の名を授かりました。
これが一般的に世に知られるご出家のエピソードです。日蓮さまのご一代記としては、様々なところで語られるお話しですので、皆さんも何かの折にお耳にしたことがあるかもしれません。しかし実のところを申しますと、日蓮さまのご出家に関すること、殊にそのお年については諸説あって、最近まで定かではありませんでした。
その一説には、十八歳でご出家の説も長い間語られておりました。その背景として、日蓮さまのいくつかの御書には「延応元(一二三九)年」または「十八時得出家」などのお言葉が見受けられ、後世の著名な伝記である『本化別頭仏祖統紀(ほんげべっつぶっそとうき』や『元祖化導記(がんそけどうき』などでは、そのお言葉を引用してか「延応元年、十八歳にてご出家」との記載があり、江戸時代にかけて長くその説が伝えられてきたのです。しかもその時授かった僧名は「是性房」あるいは「是生房」であったとされるのです。
その後、昭和の初め頃になって、日蓮さまご出家の説を決定付ける大きな発見がなされました。それが金沢文庫にて発見された『授決円多羅義集唐決(じゅけつえんたらぎしゅうとうけつ』と呼ばれる天台密教書の書写です。
この奥書には「嘉禎四年大歳戊戌十一月十四日阿房国東北御庄清澄山道善房東面執筆是聖房生年十七歳」との文がはっきりと記されており、これにより十六歳にてご出家され、名を「是聖房」と改められたことが定説となっていったのです。
と、ここまではいわゆる歴史学、あるいは文献学としてのお話しですが、実は今ひとつ、このお年にご出家をなされた、深い深い因縁を物語るようなお話しもあるのです。
それはまた、次号にて。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生