而るに日蓮は法華経の行者にもあらず、僧侶の数にもいらず。しかして世の人に随つて阿弥陀佛の名号を持ちしほどに
四条金吾殿御返事
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)より智慧の大宝珠を授かってより、いよいよ深き法門を求めて更なる勉学に励む蓮長でしたが、そこには大きな壁が立ちはだかるのでした。
蓮長の入門した時代の清澄寺は、天台宗の流れを汲む寺院でしたので、当然ながら学ぶべき学問は天台大師より受け継がれた教義が中心となります。しかし当時の時流は法華経の法門を深く学ぶような本来の天台教義ではなく、「台密(たいみつ)」と呼ばれる天台密教の奥義や、「観心主義」と言われる、いわゆる感応主義などが偏重されていたのです。
しかも世間では念佛が隆盛を極めていた時代、事もあろうに清澄山内でも師道善御坊を始め、盛んに念佛を唱える僧が後を絶ちませんでした。
そのような環境の中で、八萬宝蔵と言われる釈尊の膨大な教えの中より、唯一つの真実を導き出さんと願う蓮長は、山中にて出会うことの出来るあらゆる学問を、ある時は人に教えを請い、またある時は書物を開きながら、次々に学んでいきました。
それも虚空蔵菩薩の宝珠を授かった身となれば、まるで乾き切った布が水を吸い上げるかのように、瞬く間にすべてを修得していくのです。
「浄土三部経(阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経)」、「般舟三昧経」、「十住毘婆沙論」、「浄土論註」、「安楽集」、「観無量寿経疏(観経疏)」、「観念法門」、「往生礼賛」、「般舟讃」、「往生要集」、「往生拾因」、「往生講式」、「選択本願念仏集」。
これらはすべて、後に日蓮さまが記された様々なご文章で引用された文献です。それに対し正否を論じていくのですから、もちろんすべてに精通していなくては出来ることではありません。しかもこれらの経、論とて、実は浄土教に限っての書でしかないのです。
本家の天台、真言の密教はもとより、禅や念佛の教えに至るまで、如何に多種多様な宗派の学問を深く修得されていたかがうかがい知れます。
しかし遂には、師の導きや世の時流に従って、蓮長自身も「阿弥陀佛の名号」すなわち念佛を唱えるに至ってしまうのです。
日蓮さまと言えば、「生まれた時からお題目」との印象を誰もが抱きがちですが、決してそのような平坦な道程を辿ってこられたわけではありません。当時の山中で知り得る学問は、本家より遠く離れた天台教義と、時流に乗った念佛信仰の体たらく。残念ながらそれが当時の清澄山で学ぶ者の実状であり、蓮長を取り巻く厳しい現実であったのです。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生