元霊断院主任
福岡県妙立寺前住職
佛教とは印度のお釈迦様から始まった宗教。普通はそう思う処でしょう。確かに五千年にもおよぶ地球の文明史上、お悟りを開かれ佛様となられた方は、印度のお釈迦様ただお一人です...
『無量義経』の第一章は「徳行品第一」。
その冒頭は、『妙法蓮華経』と同様に「如是我聞」から始まります...
無量義の無と量は「妙法蓮華経」の迹門と本門の教えを暗示するものでした。
この教えは経文として文字となったものです...
迹仏たるお釈迦様の説く教えは無イコール空の教えです。
空とは、万物は全て「永遠の真理」がさまざまな因縁によって一時的に顕現したもの、因縁によって絶えず変化していくが、その本質は平等なる真理だという考え方です...
震旦では偉大なる統治者(聖人)の世のため人のための具体的な行いを迹(せき・しゃく)と言いました…
まずは無。無は無常(永遠でない)の仏様のこと。つまり仏教の元祖たる印度のお釈迦様のことを指します。
次の量とは量りまとめる、つまり統括するという意味で、全てを統括する仏様のこと。すなわち如来寿量品第十六の寿量ご本佛としてのお釈迦様のことを指しているのです…
「無量義経」の無量とは、俗に八万四千、つまり数え切れないほど膨大な数にのぼるお経のことであり、義とはそれぞれのお経に説かれた義(ただ)しい教え、真理を意味します。
仏教の教えは膨大にして無量のごとし。されど、その数多の真理は全て、ただ一つの最高の真理から発生したもの…
法華三部経の開幕を告げるお経(開経)、それが「無量義経」です。「徳行品第一」「説法品第二」「十功徳品第三」の三品(三章)一巻で成り立つこのお経は、続く妙法蓮華経序品第一と共に、法華三部経におけるプロローグ(序分)としての役割を持っています。その序品第一には…
三部経と言えば一般的には「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の浄土三部経のことでしょう。法華経の場合は、ご祈祷でお馴染みの「一部八巻二十八品…」から一部経というイメージが強いのではないでしょうか。
ここに至ってついに大聖人様は、既存の佛教の範囲を超えて見えない領域のお経をも含めた、巨大なる佛教体系を三分に振り分けに挑戦されるのです。
私たちにとっての佛教とは、印度のお釈迦様から開始された教え。されど法華経はじめ幾多のお経には、それ以前からのお経、ここ以外のお経の存在が説かれています。
華厳経・阿含経・般若経・浄土経・大日経等々の膨大なるお経は佛様の境地に近づくための教えです。
これらの教えが成り立つのは法華三部経の前半に説かれた「全ての命は佛様になれる」という教えがあればこそ。
こうして前半と後半それぞれのテーマが比較されることで、後半の教えが本当に大事なことが明らかとなります。
なぜなら「全ての命は佛様になれる」という教えも、「本当の佛様」の存在あってこそ成り立つからです。 すなわち従地涌出品第十五後半・如来寿量品第十六・分別功徳品第十七前半までの一品二半こそが最も重要なるお経だということなのです。
先ずはじめに、膨大なる数のお経全部をひとまとめとしたうえで、これを三分に振り分けます。
序分…法華三部経と涅槃経を除くそれ以外の全てのお経。華厳経・阿含経・般若経・浄土経・大日経等々…
お題目・南無妙法蓮華経こそが佛教の真髄、本当の教え。
大聖人様はこのことを佛教全体の中でのお題目の立ち位置を明かすことで証明されています。
佛様の本当の教えとは何か? それこそが若き修行時代の日蓮大聖人様が常に求め探し続けてきたことでした。
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