#030
無量義経の段 その五
(四)霊鷲山の守り神
釈迦三尊像よろしく(ちょうど増上寺で戦後初の開帳ですね)文殊菩薩、普賢菩薩を従えて獅駝洞へ降臨されたお釈迦様は、一大王、二大王はそれぞれの主人にまかせ、三大王との一騎打ちに打ってでます...
#029
無量義経の段 その五
(三)大重鎮のご出馬
敵妖怪の策略や猛攻に窮地に陥った悟空たちのもとに、その妖怪と縁ある菩薩や佛教・道教の守護神が救援に赴くというのが、西遊記のいつものパターンです...
#028
無量義経の段 その五
(二)獅駝洞の三妖怪
彼は獅駝洞をアジトにし青獅子の妖怪・一大王、白象の妖怪・二大王とトリオを組む故に三大王と名乗る訳ですが、仲間が青獅子と白象と言うと、ピンと来られる方もおられるかもしれません...
#027
無量義経の段 その五
(一)最強の妖怪は誰だ
中国四大奇書中、最大のメジャー作品といえば西遊記。お年寄からお子さんまで最も幅広く親しまれてきた作品でしょう...
#026
無量義経の段 その四
(四)赦し赦されし王たちの舎城
斑足王の驚愕は並大抵なものではありませんでした。死ぬと分っていながら自らここに戻ってくる、それもウキウキと凄く嬉しそうな表情でやって来るとは、彼の理解できることではありません。しかも普明王が戻ってくるやいなや、他の王たちも何故か皆、幸せモード全開状態…殺されることを恐れ苦しんでくれなければ、復讐の醍醐味もありません...
#025
無量義経の段 その四
(三)走れ普明王
「千王中最も徳ある王と噂で聞いていたが、情けない!赤子も同然か」と斑足王が嘲笑うと、「ふっ!我が命惜しくて泣きはせぬ、われ生れてよりこのかた、一遍の嘘もつかず。されど最後に当たって修行者との約束を違う…我が言葉が嘘となってしまう…それが、それのみが残念なのだ!」と涙ながらに普明王は訴えます...
#024
無量義経の段 その四
(二)恐れていた斑足王の千人斬り宣言
さて、紆余曲折の末に羅刹たちの頂点に立つことになった斑足王。羅刹たちを使って日々、人々をさらっては喰い続けていましたが、いよいよ憎い千王たちへの復讐に向かうこととなります...
#023
無量義経の段 その四
(一)われ人の身を捨てて復讐せん
斑足王の伝承は複数の経典に記されていますが、その一つ「仁王経(にんのうきょう)」によれば、羅刹たちを率いることとなった斑足王は、その姿さえも人の身を捨て去り羅刹そのものとなっていたといいます...
#022
無量義経の段 その三
(四)千王起つ!
毎日毎日忽然と消えていく子供たち…。悲しみと恐怖のどん底に落とされた親たちは懸命に我が子を探しますが、手掛かりは何もなく、しかも被害者は増すばかり。パニックに陥った国民たちは王に謎の連続誘拐犯の逮捕を求めますが、むろん何の可決もありません...
#021
無量義経の段 その三
(三)究極の食材
王位についてからの斑足王は来る日も来る日も肉料理を要求し続けました。いかに大国の王室とはいえ畜産業もまだまだ未熟な大昔。ある日とうとう厨房に肉が切れる日が来てしまいました...
#020
無量義経の段 その三
(二)獅子と人の狭間で
お釈迦様の世を遥かに遡った失われし超古代。この摩伽陀の地に日々、人の子の肉を食らっては民を恐怖のどん底に突き落とし、あまつさえ千人の王を捕らえてはその命を絶たんと願った、恐るべき大王がいたといいます...
#019
無量義経の段 その三
(一)その街の名は王舎城
印度北東はガンジス河の中流、現在はラージギールと呼ばれる地域に勃興した古代王朝・摩伽陀(マガダ)。その首都として栄えたのがラージャグリハ、すなわち王舎城です...
#018
無量義経の段 その二
(五)佛教に導く四つの方法
佛教は聞いても習っても、信じなければ、何の意味もありません。どんなに専門用語を知り、教えを理解していても、信心がなければ唯の学者であり、自分一人救われることはないのです。信心が芽生えるには、その人の興味は勿論、理解力、好みに見合う内容でなければなりません。この人ならば是の如き内容で信心が芽生える。故にその人に対しては、こんなお経をききましたよと、提示するわけです...
#017
無量義経の段 その二
(四)是の如く、我聞けり
過去にも未来にも無数に在す佛様。その三世の佛様の説かれる教えが記録される際、この記録書、つまりお経の冒頭に置かれる言葉こそが「エーヴァム・マヤー・シュルタム」、すなわち「如是我聞」(是の如く、我聞けり)です...
#016
無量義経の段 その二
(三)生滅を繰り返す宇宙
佛教とは印度のお釈迦様から始まった宗教。普通はそう思う処でしょう。確かに五千年にもおよぶ地球の文明史上、お悟りを開かれ佛様となられた方は、印度のお釈迦様ただお一人です...