日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#068

帰郷への道程
その二

大がくと申す人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時、身をすてゝかたうどして候ひし人なり。(中略)城殿と大がく殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御てをこのまるゝ人也

大学三郎御書(だいがくさぶろうごしょ)
帰郷への道程

一度は関東方面へ戻った蓮長(れんちょう)ですが、前回お話ししました通り、再び京へと引き返します。六牙院日潮上人による伝記『本化別頭仏祖統紀』によれば、蓮長はこのころに後の大檀越となる大学三郎(比企能本)と出会ったとされています。

皆さんは鎌倉時代に起きた「比企氏の乱」をご存じでしょうか。

能本の父比企能員は、娘婿であった時の将軍源頼家と共謀し、北条氏打倒を企てました。しかしその変は敢えなく失敗に終わり、建仁三(一二〇三)年、北条時政によって討ち取られ、比企一族も滅亡の憂き目にあうのです。

幸いにしてその子能本は、まだ三歳の幼子であったため危うく難を逃れ、伯父の伯耆法印圓顕に引取られることとなりました。身の危険が及ぶ可能性のある鎌倉を離れ、上京して東寺に身を隠すこととなった能本ですが、これが幸いしてか、都にて大変熱心に学問に打ち込み、能書家として素晴らしい才能を発揮したのです。冒頭のご書は少々解読しづらいかもしれませんが、大聖人は能本に対し「大学殿は坂東第一の能書家である」とお褒めになっておられます。

また儒者としてその名を知られる存在ともなり、その才覚が順徳天皇の目に留まり、侍者相談役の大役を与えられることとなったのです。

帰郷への道程

後に承久三(一二二一)年の承久の乱によって、順徳天皇は佐渡へ配流の身となり、能本もまた上皇に従って共に佐渡へ流罪となってしまいます。しかし嘉禄年中には赦免となって再び鎌倉への帰郷を許されるのみならず、儒官として幕府に任用されました。それは将軍頼家の側室となった能本の姉讃岐の局、あるいは将軍頼経に嫁いだその子竹の御所の力も大きいのですが、やはり能本の儒者としての能力を、高く評価されてのことでしょう。

大学三郎が大聖人に帰依し、命をかけてお護りする大檀越となるのは、まだ少し先のお話ですので、その折にまたご紹介したいと思いますが、まずはこの頃の蓮長は、学僧として大学三郎より儒学の教示を受けたといわれています。そして何よりこの出会いが縁となり、後に『立正安国論』の著述において、儒者として、また能書家として大学三郎は大聖人の大きな支えとなっていくのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成29年6月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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