日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて、我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い候て、真言の秘教をあらあら習ひ、此事を尋ね勘るに、一人として答をする人なし
善無畏三蔵鈔
修学の締め括りとして京や奈良、果ては高野山に至るまで要所を尋ね歩いた蓮長(れんちょう)ですが、この書に見られるように、既にその奥義にまで達していた学識の高さ故に、その問いに答えることの出来る者は誰一人としていませんでした。それはまた、蓮長が最勝と定めた法華経の教義に対し、勝る教えが存在しないことを示していたのです。
後に大聖人はその弘教のご生涯の中で、真言宗との対決を最終目的としていたことが、様々な御書の内容の変遷の中で伺い知れます。鎌倉期においては、真言宗は鎮護国家の法と定められる程の一大勢力をなしていましたので、まずは民衆に近い念佛や禅といった諸宗を責め、最終的には真に国を安んずるには真言の邪法を止め、法華経による祈りでなければならないとの真義を明かしていくお考えであったのでしょう。
以前ご紹介した『五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)』の書写は、決してその奥義を学ぶ為などではなく、改めて法華経と真言とを比較し、東密の失を確認するものであったことは、既にお気付きのことでしょう。そもそも『五輪九字明秘密釈』は、高野山にまで蔓延る浄土教の教えを打破することを目的として、密教教義の中に浄土門を接収しようと目論んだ覚鑁によって記されたものでした。蓮長はその過ちを見定め、かつてはその有用性を認めた真言密教も、今や亡国の教えと成り下がってしまったことを確信するのです。
十年前、まだ初めての鎌倉遊学を終えたばかりで『戒体即身成佛義(かいたいそくしんじょうぶつぎ)』を記し、真言宗の「事勝」を信じていた頃の蓮長とは、今や比べようのない程の深き知識を得ていました。その名こそ未だ「蓮長」ではありますが、間もなく名を改めるお方のすべてが、その御身に満ちているのです。
京を離れた蓮長は再び叡山の定光院へ戻りました。そして天台大師の最重要講義ともいえる『摩訶止観(まかしかん)』の研鑽に、残された僅かな日々を費やしていくのです。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生