日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#062

諸国への遊学
その十五

日月転た短く善者甚だ少くもしは一もしは二人等云云。又云く、衆魔の比丘命終の後、精神まさに無択地獄に堕すべし等云云。今道隆が一党、良観が一党、聖一が一党、日本国の一切四衆等はこの経文に当るなり

真言諸宗違目
円爾・蘭渓道隆

四天王寺を後にした蓮長(れんちょう)は、次いで円爾(えんに) や蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) を訪ねたと言われています。臨済禅を代表する両師の名は、良観と並ぶ批判対象として大聖人の御書によく登場します。冒頭の御書にあるように、「道隆」はむろん蘭渓道隆のこと、円爾は後に藤原道家より「聖一和尚」の号を授かりますので、「聖一」と記されるのが円爾のことです。

因みに聖一といえば「聖一国師」の法号が有名ですが、これは滅後一三〇〇年頃に花園天皇より諡号として贈られたものですので、大聖人ご在世のころは同じ聖一でもまだ「聖一和尚」となります。

両師共に禅宗の教えを宋よりこの国に伝え弘めた高僧として知られますが、道隆は渡来僧、円爾は日本よりの留学僧です。両者共にほぼ同時代に南宋にて臨済禅を学び、また無準師範よりの教えを受け継ぐなどの共通点を持っていました。

諸国への遊学(円爾・蘭渓道隆)

道隆はこの時、京都東山の来迎院に招かれていたとされ、蓮長はそこに道隆を訪ねたようです。来迎院は本寺である泉涌寺の子院の一つですが、泉涌寺もまた叡山や四天王寺と同じく律、密、禅、浄土の四宗兼学が謳われていました。一見すると学問が盛んなようには見えますが、権実を一絡げにし、無分別にただ文々句々を諳んずるだけの誤った佛法(もはや佛法とも呼べませんが)が、尊き教えのごとく世にもてはやされていたのです。

そして円爾の宗風もまた、禅密兼修を旨としていました。禅門を中心としながらも、真言や天台の密教教義などを巧みに取り入れ、独自の教えを弘めていきました。それはまさに四宗兼学を地で行くスタイルであったのです。

蓮長はそんな両師の法門を聞きながらも、当然その教え自体に救いを求めるような姿勢ではなかったでしょう。既に深い智慧を身に付けた蓮長にとって、耳より入る両師の教風は、返って現在の佛教界が直面している障礙を浮き彫りにし、己が為すべきこと、弘めるべき教えを確信させてくれる、貴重な材料となっていくのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成28年11月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

pagetop

TOP