日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#063

諸国への遊学
その十六

同十月二十八日に佐渡の国へ着きぬ。十一月一日に、六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に、一間四面なる堂の佛もなし

種種御振舞御書(しゅじゅおんふるまいごしょ)
諸国への遊学(蓮長)

円爾(えんに)や蘭渓道隆(らんけい)(どうりゅう)を訪ねた後、蓮長(れんちょう)は京の都に滞在したと言われています。

冒頭のご文章は、後に大聖人が佐渡流罪の際に幽閉された塚原三昧堂の様子を記したものです。面白いのは、ここに「落陽の蓮台野のや(よ)うに」という譬えが見られます。

蓮台野とは、当時の京都で風葬を行うための葬送地でした。今でこそ、人が亡くなれば火葬を行うのが一般的となっています。しかし当時は大量の薪を燃やして遺体を荼毘に付す、あるいはきちんとした棺に納め副葬品と共に埋葬するなど、裕福な上流階級者だけが行える贅沢な葬送方で、貧しい暮らしを送る庶民には到底かなうものではありませんでした。そのため一般庶民は、洛外に運んで何日も野に晒し、風化するのを待つ風葬を行っていました。その風葬を行うための葬送地が、嵐山北部にある化野、東山の鳥部野、そして船岡山の北西一帯の蓮台野であったのです。

諸国への遊学(蓮長)

蓮長が京都を巡った詳しい足取りは、もちろん知る術もありません。しかし少なくとも当時の蓮台野を訪れ、その光景を目にしていたことはこのご文章を見ても明らかです。

佐渡の塚原も「死人を捨る所」とあるように、やはり蓮台野と同じく葬送地でした。雪深い極寒の佐渡での厳しい生活も相まって、かつてご自身が蓮長として各地を巡っていた頃、京都にて目にした蓮台野のもの悲しい光景を、ふと大聖人は思い出されたのでしょう。

鎌倉時代の人々の悲惨な暮らしぶりは、もはやご説明するまでもないこと。大聖人も折に触れ、その惨状を書き記されておられます。それを思えば、飢えや病、度重なる災害や争いにて命を落とした人々の骸が、文字通り山のように横たわっていたに違いありません。そこには平穏に寿命を迎えられた者など殆どなく、数年、数ヶ月しか生きられなかった幼き子供の哀れな亡骸は、蓮長にこの娑婆世界が末法を迎えていることを、改めて知らしめているのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成29年1月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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