日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#046

比叡山での修学
その8

伝教大師宗々の人師の異執をすてゝ専ら経文を前として責させ給しかば、六宗の高徳八人、十二人、十四人、三百余人、並びに弘法大師等せめをとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都、東寺、日本一州の山寺みな叡山の末寺となりぬ

開目抄かいもくしょう
比叡山での修学

これまで比叡山の惨憺(さんたん)たる状況をお話致しましたが、もちろん叡山修学の十二年間は、蓮長(れんちょう)にとってまったく無益であったわけではありません。むしろ後の日蓮大聖人としての大切な礎を築かれたのが、この比叡山での日々であったといっても過言ではないでしょう。

まずは以前お話を致しました、俊範(しゅんぱん)法印よりの天台教義の伝授です。俊範の学風は、天台直伝の正統な法華経教義を重んじ、新興である禅や念佛への批判はもちろんのこと、慈覚大師(じかくだいし)以来山内で重んじられていた真言密教に対しても、大変批判的であったとされます。また天台教義においても、自身の系統である恵心流の本覚法門のみならず、檀那流の流儀にも精通していたと思われるところが、蓮長の思想形成にとって大変重要な糧となっていくのです。

そして今一つは、「論議」を重んじる比叡山の学風による経験でした。比叡山中興の祖と仰がれる慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)[元三大師]の住房であった定心房(じょうしんぼう)にて、春夏秋冬の四季に行われる法華経論議を軌範(きはん)として、様々な法門の実習が盛んに催されていました。それこそが、南都六宗を論破して日本国中を法華経に帰依せしめた、伝教大師より脈々と受け継がれる比叡山の気風であったのです。

比叡山での修学

論議には学問に秀でた者が参加を許され、学匠(がくしょう)より与えられる論題をめぐって、激しい法論のやり取りがなされました。定心房の別名「四季講堂(しきこうどう)」の名の通り、初めは四季毎の法華経論議でしたが、やがては先師講や様々な法会と共に催され、最盛期では全山で月に百回以上の論議が行われていたと言われています。

秀才の輩出で有名な横川に住することを許された蓮長ですので、当然のことながらこの論議にも盛んに参加していたことでしょう。後に大聖人はいずれの人師と相対しても、決してその義を破られることはありませんでした。また弟子や檀越に宛てたお手紙の中には、他宗に攻め入られた時の返答の仕方を、実に見事に教授されているものも見受けられます。

大聖人の法華経、天台教義を基とした学識の高さはもちろんですが、激しく論を戦わせながら、決して引けを取ることなく論破していくその巧みな技法は、おそらくこの比叡山で交わした幾多もの論議によって、蓮長の身に培われていったのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成27年6月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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