伝教大師の御弟子慈覚大師、この(真言)宗をとりたてゝ叡山の天台宗をかすめをとして、一向真言宗になししかば、この人には誰の人か敵をなすべき。かゝる僻見のたよりをえて、弘法大師の邪義をもとがむる人もなし
撰時鈔
蓮長(れんちょう)が比叡山を訪れてより、既に数年の歳月が流れようとしていました。一心に学問に打ち込む蓮長の学解の深さは、もはや同窓の学僧では肩を並べる者のいないほど優れたものとなっていたことでしょう。
それを裏付けるように、秀才の輩出で名高い華光芳谷の「横川(よこかわ)定光院(じょうこういん)」に住することを許され、そこで俊範(しゅんぱん)よりの教えを請うこととなります。更に驚くことには、南勝房の直轄寺であった東塔円頓房の主座にまで任ぜられるのです。当時の山内にあって、実力主義が重んじられていたとはいえ、辺国より訪れた田舎坊主が一房を託されることは、おそらく大変な快挙であったといえましょう。
また比叡山で身に付けた知識は、何も佛法のみに限ったものではありませんでした。
伝教大師は佛法のみならず、若き頃より陰陽道や医法、また工芸なども熱心に研鑽し、それの知識をも弟子たちに伝搬したとされています。
また大聖人より後の比叡山学僧「光宗」が記した『渓嵐拾葉集』には、天台の口伝奥義や法要作法以外にも、医療や算術、歌道や風俗などの文化面、果ては兵法や土木技法に至るまで、様々な事柄が山内では専門的に研鑽されていた様子が記されています。
比叡山の学僧は、思い思いに己が必要とする学問を修得することが出来たのです。
大聖人は檀越にお与えになる御消息の端々で、ただ経文の論釈のみでなく、世法との対比や比喩、故事や伝記などを実に巧みに取り入れられています。その膨大な知識は、乳母であった雪女(ゆきじょ)の教育だけでは施せるものではありません。鎌倉での市中見聞を経て、比叡山での修学中に多くの世法を身に付けられたに相違ありません。
後に領家の尼と東条景信との訴訟問題で、大聖人ご自身が弁護役を引き受け、見事尼御(あまごぜ)前を勝訴に導いたお話は有名ですが、弁護士としての高度な知識や技量とて、ここで培った力が発揮されたものなのです。
こうして数年の歳月をかけて多くのものを学んだ蓮長は、更なる飛躍を求めて、いよいよ諸国遊学への出立を決意します。そこでの主な目的は、まだ目にしたことのない新しい書物の閲覧、そしてこの修学の大きな目的の一つでもあった、真言奥義の研鑽です。
既に天台教義の神髄を学んだ蓮長は、清澄山にて「戒体即身成佛義(かいたいそくしんじょうぶつぎ)」を記した折の若輩とは違います。この数年間に鍛え上げたその鋭い眼で、法華と真言との真の優劣を見極めるべく、比叡山よりの更なる一歩を踏み出すのです。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生