大和の荘法印俊範、宝地房の法印宗源、同坊の永尊竪者等、源空が門徒を対治せんが為に各各子細を述ぶ
[念佛者令追放宣旨御教書集列五篇勘文状]
この御書には「俊範(しゅんぱん)」や「宗源(そげん)」の名が見受けられますが、この両師は共に比叡山の優れた学匠で、同じく『浄土九品之事(じょうどくほんのこと)』などにも、両師の他に正覚法印や西塔円頓房の貞雲法印、また龍証法印などの名が記されています。何れの諸師も当時(年代に多少の前後はありますが・・・)の比叡山において、証義者や探題、学頭といった学問上の要職を務める大変優れた高僧ですが、殊に大和荘法印俊範は、当時の三塔総学頭に任ぜられる程の名僧でした。
俊範は奈良の南都にて、六年間にわたって法相宗を初めとする南都六宗の教義を修めました。その後に比叡山に上り、範源法印に師事して恵心流椙生の教義を授かったとされています。承久三(一二二一)年には僧都の階位と探題の職に任ぜられ、やがて三塔総学頭を務める程の名僧と謳われるようになっていったのです。
蓮長(れんちょう)は比叡山での日々を横川の定光院に住しながら、この俊範に師事し天台学を修めたと言われています。もちろん生涯「師」と仰いだのは道(どう)善房(ぜんぼう)お一人ですので、俊範の下で学んだという意味合いでの師事です。今で言うところの聴講生といったところでしょうか。
当時の山内で学ばれていた天台学の流儀には、恵心僧都源信の立てた恵心流と、檀那院覚運の檀那流の教義がありました。恵心流は「止観(新羅万象の本質を観る)の立場から言えば、私たち凡夫も初めから佛である」とする「本覚法門」を説き、対して檀那流は「事物には本質と表面があるので、成佛とは修行の成果として本質に到達するもの」とする「始覚法門」を旨としていました。
後に日蓮大聖人は、この「本覚法門」を教義の中心とされ、一切衆生の”即身成佛”を提唱されますが、実はこの本覚法門には諸刃の剣ともなるような、危険な思想をも孕んでいるのです。それが後世に及ぶ悪評となった「中古天台思想」を生み出すのですが、それについては、また改めてお話を致しましょう。
俊範は師である範源法印より恵心流の教義を授かったくらいですので、主に本覚法門を中心とした教えを教授していたと思われます。しかしながら、後に弟子の中より檀那流の学匠にまでなる人物が育っており、また俊範の学識の高さから考えても、おそらくは両流に精通していたことは間違いありません。望むのであれば、両流の教えを偏ることなく学び尽くすことも可能であったことでしょう。
その環境の下で学んだ教義は、後に新佛法とも言える大聖人独自の教義を打ち立てる上での大変重要な礎となって、若き蓮長を育んでいったのです。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生