日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#012
清澄寺ご入山
その四

「そもそも人王八十二代隠岐の法王(後鳥羽上皇)と申す王有き。去ぬる承久三年〈太歳辛巳〉五月十五日、伊賀太郎判官光末を打捕まします。鎌倉の義時をうち給はむとての門出なり。やがて五畿七道の兵を召して、相州鎌倉の権の太夫義時を打ち給はんとし給うところに、還つて義時にまけ給いぬ。結句我身は隠岐の国にながされ、太子二人は佐渡の国、阿波の国にながされ給う。(中略)これはいかにとしてまけ給いけるぞ。国王の身として、民のごとくなる義時を打ち給はんは鷹の雉をとり、猫の鼠を食にてこそあるべけれ。これは猫のねずみにくらはれ、鷹の雉にとられたるやうなり」

(本尊問答鈔)

この日本国に国家が形成されてより平安中期に到るまで、帝をはじめ朝廷勢力は絶大な力をもって国を統治していました。この当時の国の支配と言えば、「民」そして「土地」の掌握に他なりません。朝廷は律令制のもと国中に広大な御領地を設け、また地方の豪族や荘園領主に土地の安堵を約束し、租税を納めさせることによって莫大な富と権力を得ていたのです。

清澄寺ご入山

しかしその力にもやがて衰えが見え始めました。厳しい税の取り立てや領主の不正横暴に、農民たちの不平不満は頂点に達していました。その中で有力な農民は新地の開墾によって力を蓄え、次第に領主や中央の権力を無視して自分たちで土地を支配するようになっていったのです。自らの手で自らの耕す田畑を護るため、人々は徒党を組み、時には鍬や鋤を刀に持ち替えて戦いました。武士の誕生です。

中には元々荘官として都から派遣された役人が、こうした一党の中に加わりリーダーとしての才覚を発揮する者も現れました。やがてその者は「棟梁」と呼ばれ、勢力争いを重ねながら、次第に大武士団を率いていったのです。皆さんご存じの「平氏」や「源氏」の一門も、元を辿ればこうして誕生した棟梁たちでした。後は皆さんご承知の通り、源平合戦の始まり始まりです。

ちょうど今NHKの大河ドラマでは「平清盛」を放映していますので、ご覧になっている方も多いのではないでしょうか。ドラマは平安末期の京都を舞台としますが、武士たちはみな御所の地に伏し、貴族から「王家の犬」と蔑まれる姿が描かれています。地方で勢力を増していった武士たちも、中央ではまだまだあの程度の身分の低い扱いです。いかに富や権力を失いつつあるとはいえ、朝廷、ことに帝や院ともなれば、我らとは一線を画す絶対的な存在であるという価値観が、当時の人々の心には根強く遺されていたのです。

それを覆していくのが、ドラマの中で活躍している父忠盛や主人公の清盛たちであり、やがて時代の大転換を果たす源頼朝であったのです。その顛末はここで語るよりも、毎週の放送を楽しみにしていただいた方がいいですね。

イラスト 小川けんいち

小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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