日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#011
清澄寺ご入山
その三

「必ず無量の国土を守護する諸大善神あらんも、皆悉く捨去せん。すでに捨離し已りなば、その国まさに種種の災禍あつて国位を喪失すべし。疫病流行し、彗星数(しばしば)出で、両日並び現じ、薄蝕恒(はくしょくつね)なく、黒白の二虹不祥の相を表わし、星流れ、地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉に遭いて、苗実成らず、多く他方の怨賊あつて国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地として所楽の処あることなけん」

(災難対治鈔)

前号までに善日麿が清澄へ上がられた経緯についてお話を致しました。その折にご紹介した『破良観御書』にて「所願」という言葉に触れさせていただきましたが、今回は少し話を戻して、善日麿が清澄寺入山に到るまでの時代背景、幼き子に大きな決意を抱かせた鎌倉という時代についてお話をさせていただきます。

ここにご紹介したお言葉は、日蓮さまが『災難対治鈔』の中で『金光明経』というお経の一節を引用されたご文章です。当節(鎌倉時代)の日本国は、まさにこの文に示される通りの様相を呈していました。

当時の史実を知る上で最も重要な記録とされるのが、皆様もお馴染みの『吾妻鏡』と呼ばれる歴史書です。その記述に依りますと、善日麿お誕生より十二歳に到るまでの間、地震の記録一つを見ても、大地震とされるものだけでも十回に及び、中小ともなれば、実に五十回にも及ぶ地震が各地で起こっていたと言われています。

さらには暴風雨、干ばつ、幾人もの死傷者を出す大規模火災、果ては真夏に雪が降るような気候の異変が次々に襲いかかり、人々は飢えや疫病に苦しみ、数多くの餓死、病死者がそこかしこで道端に横たわっているような惨状が、国中に広がっていました。

清澄寺ご入山

一方で世の政(まつりごと)に目を向ければ、そこには治世を忘れた武士による権力争いが繰り広げられていました。皆さんは「鎌倉時代」あるいは「鎌倉幕府」と聞けば、何を思い浮かべるでしょうか。

武家のヒーロー源朝臣(あそん)頼朝による史上初めての幕府設立、いよいよ武士による政治の始まりというのが、誰もが思うイメージではないでしょうか。それは華々しい歴史の転換期として後世に伝えられたものですが、あまり語られることのないその背景には、当時の人々が持つ価値観の、大きな変革があったのです。

かつては絶対的な権力を誇り、誰もが神として崇めることに疑いを持たなかった天子さまも、武士の台頭により次第にその影響力を奪われていきます。そのような情勢の中で、ついには「承久の乱」という大事件が勃発してしまうのです。

イラスト 小川けんいち

小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

pagetop

TOP