日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#007
ご幼少期(その一)

お誕生より幾年の月日が流れ、房州の美しい海と暖かい日差しの下、元気に育つ善日麿(ぜんにちまろ)のお姿がありました。善日麿は・・・、と書き進めて参りたいところではありますが、残念ながらお誕生と同じく、ご幼少期についてもその資料となるものは非常に乏しく、それは史実というよりは「言い伝え」の域を出ないものです。その中で、興味深いいくつかのエピソードをご紹介して参りましょう。

前回ご紹介した西蓮寺の山門前には、「日蓮大聖人十二歳マデ御養育之霊場」と記された堂々とした石塔が佇んでいます。十二歳といえば日蓮大聖人さまが清澄へ勉学に上がられるお年ですので、この石塔の文が真実だとすれば、おそらく物心つかれた時より清澄に至るまでの数年間、この場所を中心に過ごされたと思われます。やはりご幼少期の資料には、このお寺の山史・伝記を当たるのがよさそうですね。

ご幼少期(その一)

それらの伝記によれば、日蓮さまの父貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)には五人の子がいたとされています。つまり日蓮さまは五人兄弟であったということです。その四番目が善日麿すなわち日蓮さまで、さらにその下には藤平(とうへい)という名の弟がいました(兄弟の名前のギャップが面白いですね)。現在でも近隣の地には「藤平(ふじひら)」姓をもつ方が少なくありませんが、その中には彼の「藤平(とうへい)」の子孫であると伝えられている方々もいらっしゃるようです。

さて、善日麿はこの五人兄弟の中でやんちゃに揉まれて育ったかと思えば、さにあらず、何と「乳母」がいらっしゃったというのです。乳母の名は雪女(ゆきめ)と称しまして、その出所は当地の有力者であった滝口三郎左衛門の娘といわれています。道善房は滝口家よりの申し出を大変喜んで、この娘にわざわざお給料を払って善日麿の乳母としました。雪女は当時の田舎漁村としてはめずらしく大変な教養の持ち主であり、善日麿に対して村人たちも驚くほどのきびしい躾と教育を施しました。もちろん、その教育の場は道善房のお膝元、西蓮寺山内であったことでしょう。

後に日蓮さまが清澄へ上がることのできた理由は、実にこの雪女の負うところが大きいのではないでしょうか。というのも、一介の田舎漁師の子供が地元の名刹である清澄寺へ勉学に上がるなど、並大抵のことではありません。もちろんその身分云々の謎は残りますが、それでなくとも読み書きも満足にできない者が、お寺での勉学を許されるとは到底思えません。十二歳のお年を迎える頃には、既に雪女によって十分な教養を身につけられていたものと思われます。

現にご幼少期より高い教養を思わせるような、様々な軌跡も残されていますが、そのお話はまた後ほど。

イラスト 小川けんいち

小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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