日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#008
ご幼少期(その二)

房州小湊の地には、今でも「御乳(ごち)さん」と称される家があります。これは乳母雪女の生家であった滝口三郎左衛門ゆかりの家であると言われ、この家系では代々女の子が生まれると「雪」の字をその名に冠す習わしがあるそうです。幼き善日麿を育んだ房州の歴史を物語る、大変興味深い伝承ではないでしょうか。

乳母雪女の養育は、まるで我が子を思うがごとく大変熱心であり、その甲斐あってか善日麿の成育ぶりには周囲も目を見張るほどでありました。説によれば、善日麿は二、三歳にして神佛を篤く敬い、五歳の頃には既にお自我偈を諳んずることができたとのこと。この当時は当然ながら数え年ですので、今で言うところのわずか四歳、やっと幼稚園に上がれるくらいのお年でしょうか。日蓮さまと比べるのも失礼ながら、私のところにも同じ年頃の息子がおりまして、私が朝のお勤めでお経を読むのを端で聞きながら、門前の小僧よろしく何やら自分も「モニョモニョ」と言っておりますが、残念ながらこちらはまったくお経の体をなしていません。方や善日麿は、やがて八歳になると法華経一部を覚え、難解な佛書を次々に読み解いていったと言われていますので、その知識の高さには本当に驚くばかりです。

ご幼少期(その二)

ご幼少期の素養の高さは、学問に限ったことではありませんでした。千葉県下総(市川市中山)の大本山中山法華経寺には、善日麿十一歳の時の御作と伝えられる戯画二葉が、宝物として現在も確護されています。そのひとつは軍装のたくましい馬がいななく姿を、ひとつは鎧を身につけた武者たちの戦う姿を描いたもので、いずれも鎌倉武士たちの生き生きとした姿が、見事な技量で描写されています。わずか十歳というお年でこれだけの才を発揮されていることにも驚きますが、何よりも不思議なのが、当時情報量の乏しい鎌倉時代にあって、漁村に住む童子がいかにしてこれらのモチーフを目にしたのでしょうか。あるいは乳母より軍記物語を耳にし、その合戦風景を思い描き・・・、というにはあまりに生々しい両幅の絵を拝見するにつけ、やはりご出生の秘密をいろいろと想像してしまいます。

こうして善日麿を立派にお育てした雪女でありましたが、善日麿十二歳の時に病床に伏し、ついには帰らぬ人となってしまいました。善日麿は雪女の死を痛く悲しみ、ご自身をここまで育ててくれた大恩を思い、墓前に一本の桜の苗を植えて「乳母桜」と名付けられました。また追善供養の為にとご自身の勉学姿をお手彫りされ、西蓮寺薬師如来の御宝前に奉安されたのです。これもまた幼童の技とは思えぬ見事な彫り物で、雪女の墓所とされる五輪の供養塔、乳母桜、そしてこのご幼像も今なお現存し、寺宝として大切に奉安されています。幼き頃より佛法を深く敬い、そして大恩ある者にはその恩に報いたいと心より願う、そんな日蓮さまの原点を知ることのできる心温まるエピソードです。

イラスト 小川けんいち

小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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