日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#002
お誕生(その一)

「日蓮は日本国東夷(とうい)東条安房国海辺の旃陀羅(せんだら)が子也」(佐渡御勘気鈔)

安房の国(現在の千葉県南房総地域)は大変温暖な気候に恵まれた土地で、北からは親潮、南からは黒潮と両海流の恵みを受け、季節を問わず豊富な海の幸を堪能することができます。日蓮大聖人さまのお生まれになった小湊の地(現在の鴨川市小湊)は、現在でもとてものどかな漁師町として知られ、当時も今と同じように穏やかな房州人の暮らす海辺の漁師村であったことが伺えます。

時は今より八〇〇年ほどさかのぼり、鎌倉時代初期(一二〇〇年代初頭)のことです。鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝の死後、幕府内には政権争いが絶えず、やがて実質的な権力は、将軍家より執権である北条家に移ろうとしていました。そんな矢先、時の上皇である後鳥羽院は、政治の実権を再び朝廷へ取り戻そうと、鎌倉幕府に対し兵を挙げました。いわゆる「承久(じょうきゅう)の乱」と呼ばれる戦いです。圧倒的勢力をもつ幕府の大軍に、朝廷はわずか二ヶ月あまりで完敗し、後鳥羽院は隠岐島(おきのしま)へ流罪の身となってしまいました。上皇、天皇を始め数々の皇族達が武士の手によって流罪されるなど前代未聞の事変は、いよいよ武家による政治の始まりを示すものでした。と同時に、長きにわたった源平合戦が終わりを迎え、ようやく治まりかけていた世情に、再び乱世の様相がその暗い影を落とし始めていたのです。

しかし、まだまだそんな都の喧噪とは遠く離れた安房国の小さな小さな海辺の集落に、穏やかな暮らしをいとなむ夫婦の姿がありました。夫の名は貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)、妻は梅菊(うめぎく)と称します。二人は近隣の者同様に、豊富な海の幸に恵まれた房州小湊の地で、漁を生業として暮らしていました。

日蓮さまはご自身の出生を語られる時に『旃陀羅(せんだら)が子』という表現をよく用いられます。それは『生き物を捕る(殺生をする)ことを生業とする者』。つまりご自身が漁師の子であることを意味しています。古くは『チャンドラ』というインドで最も低い身分を意味する言葉が語源です。現代のように職業選択の自由もない当時は、王族や武士のように非生産階級の身分は高く、生産階級、とくに生き物を殺さなければならない職業は低い身分と考えられていたのです。

しかし日蓮さまは、決してご自分を卑下されていたわけではありません。そのご真意は「私は特別な生まれの者ではなく、むしろ片田舎の最も賤しい身の生まれであるが、そんな私でもご本佛さまの大慈悲によってお題目を伝え弘める使命を与えていただけたのだ」との喜びを示すお言葉なのです。

小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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