日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
よろこび法話 よろこび法話

#081
仏の子として

和歌山県和歌山市 妙宣寺聖徒団団長
日蓮宗全国霊断師会連合会副議長
弘宣局教宣部部員
蘆田恵教

月参りをしているお檀家さんとの会話で、「お上人、一生懸命に仕事をしてきて、それなりに楽しく暮らしてきたんだけど、最後死ぬ時『いい死に方』ってどういうことを言うんですかね」と言われた方がおられました。以前ある雑誌に「いい死に方」と「悪い死に方」について掲載されていました。

仏の子として

それには「いい死に方」とは「幸せな死に方」であり、それには世俗的な価値観から距離をおいてみる。死を見据える、今までとは違う生き方をしてみるのが良いとの事。また、菩提寺の無い方は供養をお願いしたいお寺を見つけて、このお寺に葬ってもらうのだという安心を得る事だそうです。

現代社会では、身寄りが居ない方でも医療機関が最後を看取ってくれます、葬儀も葬儀社がしてくれます。しかし、故人が遺骨になってからは、弔って供養してくれる人・場所が必要になります。

そして「悪い死に方」とは「惨めな死」のことであり、「死後、自分を供養をしてくれる人」がいないという「死後の不安」を持つ死に方だということです。家族や親族がいても、引き取り手の無い遺骨や忘れ物として届けられる遺骨が増えているようです。

死は必ず訪れます。だからこそ、先ず死後の自分を考えるべきであります。

昔、「大往生」(永六輔さん)という「死」をテーマに書かれた本の中に「いかに死ぬかという事は、いかに生きるかということ」「死に様とは生き様の事」という言葉がありました。

日蓮大聖人は『妙法尼御前御返事』という御遺文の中で

人の寿命は無常なり。出る息は入る息を待つ事なし。風の前の露、なお譬えにあらず、賢きも愚きも、老いたるも若きも定めなき習いなり。されば先ず、臨終の事を習うて後に他事を習うべし

この御遺文はご信者である妙法尼さんからの、「主人は南無妙法蓮華経を夜も昼も唱えて、いよいよ臨終が近くなったら二声高声に唱えました。そして最後は生きている時よりも、安らかな顔でした」という、ご主人の臨終された報告のお手紙に対する御返事です。

これに対して日蓮大聖人は、人の寿命の無常さを風の吹く前の露に喩えられて、「先ず臨終の事をわきまえて、その後で他の事を学ぶべきである」と、どんな人でも必ず死んでしまう、だからどの様に死を迎えるか、また自分の死後の事を弁えておく。とお示しになりその為には、どう生きなければいけないのか。生きるべきなのかを言われています。

仏の子として

「法華経の名号を持つ人は、今生と過去世の黒業の大悪が変じて白業の大善となる。まして過去世からの善根はみな変じて金色になる」また「あなたのご主人は臨終に際し南無妙法蓮華経をお唱えになられたのであるから、無死の悪業も変じて仏様の種となったのです。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏という法門はこのことなのです。このような人と夫婦として縁を結ばれたのですから、あなたの女人成仏も疑いないのですよ。」と、この言葉は妙法尼さんにとって、この上ない救いになった事でしょう。

法華経に「今この三界は皆是れ我が有なり、その中の衆生は悉く是れ我が子なり」と説かれています。この世界は仏様の大事な財産であり、生きとし生ける私たちは仏様の子供であると言われています。仏の子として恥じない生き方をしなければなりません。いい加減な毎日を送る事は出来ないでしょう。

この世において、受け難き人身を受け、会い難き妙法に出会えた私たちは、この限りある人生の中で果たしていく使命があります。それは各々の立場で南無妙法蓮華経の道を持ち、行い、護り、弘めることです。私たちを一人ひとり見守ってくださっている俱生神さまとの契りの符である俱生神月守を着帯し、南無妙法蓮華経をお唱えする信仰を生活の基として、みんな一緒にみんなの幸せを願うことです。

共に生き、共に栄えて、共に歩んでいきましょう。

※この記事は、教誌よろこび令和4年2月号に掲載された記事です。

イラスト 小川けんいち

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