日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#082
死について学ぶ
~コロナでは死なない~

長崎県佐世保市 大光寺聖徒団団長
霊断院講師
大野光法

令和二年の春に感染拡大した、新型コロナウイルスによる不安な世相のなかで、今まで全くと言ってよいほど意識しなかった「死」について、若い世代の人達までもが、死は身近なものとして捉えるようになりました。

ところで、私は皆さんに「コロナで亡くなった人は一人もいません」と話しています。怪訝な顔をされますが、昔の方は、人は病気では死なない、寿命を迎えて死んでいくと教えてくれています。コロナもガンも交通事故も、その人の寿命、きっかけなのです。誰しも一度は死にます。それは平等です。ですから、死について学ぶことが重要です。

死について学ぶ

臨終が近づいて、意識もなく、大きく口を開き、苦しそうな息をしている姿を見ると、苦しいのだろうなと思いますが、この頃には魂は出たり入ったりしています。ですから、たぶん苦しみは感じていないかも知れません。

「誰々さんが来た」というお迎え現象は、看護師さんにとっては常識です。臨終が近いことを知らせてくれるサインです。

さらに、死ぬ瞬間が怖いと思っている方が多いようですが、臨終が近づくと、お花畑、川、そして川向こうにいる懐かしい人たちを見る方が多いようです。

ではなぜ臨死体験の人たちが見てきたという風景が浮かぶのか。それは、進化の過程で身につけた死の緩和ケアなのです。臨終の瞬間、苦しくないようにそのような世界が見えるものと考えられています。ですから、実は死の瞬間は苦しくないのです。

私が霊園を経営している関係から、来園者から様々な質問を受けます。そんな中に、父親のご葬儀でのこと、「院号を断ったら、ご住職から親不孝のように言われ、院号をつけると、もっといい世界に行けるとも言われました。本当ですか?」という質問を受けました。

それでは、日蓮大聖人様に、お伺いしてみましょう。ご葬儀の引導文で、聞かれた方も多いかと思いますが、

此法華経は三途河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては燈となり、霊山へ参る橋也。霊山へましまして艮の廊にて尋させ給へ、必待奉るべく候

波木井殿御書

と、死出の旅路の安心と、自分が(日蓮が)待っているよと示されます。

しかし、この文章には続きがあります。分かりやすいように、意訳してみましょう。

死について学ぶ

ただし、それぞれの信心によるものである。生前の信心が弱かったならば、日蓮の信仰に繋がる者と言っても、通用するものではない。石が下に転がり落ちるように、雨が空から落ちてくるように、地獄に落ちてしまうであろう。その時に日蓮を恨むのはお門違いだよ。もう一度言うよ、それぞれの信心こそが大事なのだ」

九識霊断法に縁があってご信心をされている皆様は、霊断法の霊験神秘を体験されている方々です。何かことがあるたびに霊断法による指導を受け、その不思議体験により信心は堅固となり、自然と霊界の門を開くことが出来ます。

自分の行く世界を決めるのは、自分自身だと心に留め、益々のご信心に励んで参りましょう。

※この記事は、教誌よろこび令和4年3月号に掲載された記事です。

イラスト 小川けんいち

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