日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
法華経のお話 法華経のお話

#083
無量義経の段その四十一

1.我が手に掴めぬもの無し!
(豊臣秀吉)

法華経のお話_無量義経の段その四十一

『法華経』というお経のタイトルである「南無妙法蓮華経」こそが、私たち迷える凡夫に贈られた“救いの切り札”であり、“究極の救いの手”だったのです。た・だ・し!あくまでもそれは、「外から来る救いでは」ということです。

究極の救い、本当の幸福たる成佛への鍵は、ただ外から、つまり他者から与えられるだけでは、残念ながらパーフェクトとは言えないんですね、これが。

そう、切り札たる究極の救いの手は、実は受け手である私たちの内にもあるのです。

譬ば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして、此縄にとりつかば我れ岸の上に引登さんと云はんに、引人の力を疑ひ縄の弱からん事をあやぶみて、手を納て是をとらざらんが如し。争か岸の上に登る事をうべき。若其詞に随ひて、手をのべ是をとらへば即登る事をうべし。唯我一人能為救護の佛の御力を疑ひ、以信得入の法華経の教への縄をあやぶみて、決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず

持妙法華問答鈔(じみょうほっけもんどうしょう)

いかに優れた名馬でも、乗りこなせる優秀な騎士がいなければ、名馬も真の力を発揮することなく、いかに強力な必殺技といえども、それを使える術者なくしては何の意味もなさない。

同様に、いかに壽量ご本佛・釈尊の究極の救いの手である、「南無妙法蓮華経」のお題目といえども、受け手である私たちに、それを受容できる器がなくては、何の意味も成さないわけですね。そのお題目を受けとる器こそが、実は「南無妙法蓮華経」という名で呼ばれる、いま一つの存在なのです。

2.もうだれにもバカにさせない。みんなにぼくの名前を覚えさせてやる、明晴の吉田剛だ!
(吉田剛)

吉田剛くんはどんなに頑張っても、天才の上杉達也には叶いませんでした。いかに天津飯やクリリンが修行を極めても、サイヤ人の血筋の前では意味もありませんでした。これらは生れ持った能力の差が、いかんともし難いという残酷な例。

されど究極の救いの手たる「南無妙法蓮華経」を受け取る器には、そんな差別はありません。誰もがお題目を受け取る器、能力を持っています。

法華経のお話_無量義経の段その四十一
無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり

御義口伝(おんぎくでん)

外から来るお題目を受け取るのは、やはり私たちの内なるお題目です。

私たちの心の中にも、実はご本佛さまが存在しており、そのご本佛さまの名を、「南無妙法蓮華経」とお呼びするのです。

我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の佛性、南無妙法蓮華経とよびよばれて、顕れ給ふ処を佛とは云うなり

法華初心成仏鈔(ほっけしょしんじょうぶつしょう)

外に在(ましま)すご本佛・釈尊がお与え下さる救いの手である「南無妙法蓮華経」(お経のタイトル)と、私たちの内なる「南無妙法蓮華経」(己心のご本佛のお名前)とが呼応する時、真の救いは実現するんですね。

譬へば篭の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば、我身の佛性もよばれて必ず顕れ給ふ。梵王、帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。佛、菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ

法華初心成仏鈔

己心のご本佛さまは、誰にでも存在しています。大切なことは、それを知り、そして信じることです。それと同様に、外からの救いの手であるお題目の力を信じることも、もちろん重要なのです。

※この記事は、教誌よろこび平成27年4月号に掲載された記事です。

イラスト 小川けんいち

塩入幹丈

元霊断院主任

福岡県妙立寺前住職

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