日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
よろこび法話 よろこび法話

#066
役に立つ
~ 自分の為に、誰かの為に ~

愛知県名古屋市 本住寺聖徒団 団長
日蓮宗霊断院 九識霊断法研究部主任
永田智瑛

一年の始まりや年度の始まりには、「この一年間がどうなるのか」等の期待と不安が入り混じる心地になるものです。年頭には一年間の無事安泰を願ってご祈祷を受けたり、その年の運勢を霊断法に尋ねられる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

昨年の初め「今年前厄になるので、厄祓いをしてほしい」と三十一歳の女性Aさんが、聖徒の紹介でお寺に尋ねて参りました。「神頼みはしない」という人でもついつい気になってしまう厄年です。

肉体的・精神的変化が大きく、体に気を付けなければならない年齢、男性は四十代始め、女性は三十代半ばを先人たちは「厄年」と考えてきました。厄年とは人生の節目や病気・災難の恐怖から逃れるための先人たちの智恵なのです。

Aさんは単に「神社のお祓いよりもお寺の方が何となく効きそう」ということで、縁あって当山に来られました。

私は「ご祈祷する前に九識霊断法によって物事の真相を明らかにします。そうすることで、より深く注意点や改善点が判明します。また霊断を行うときには心を落ち着かせることが不可欠です。お題目は心を整える薬です。」と霊断指導を勧めました。

突然の提案に戸惑っていたAさんでしたが、霊断法を受け、お題目を唱えました。

仏様のお導きによると、しばらく経ってから環境や状況が激変し、それが続いていく。(当時は考えもしませんでしたが、それは新型コロナウイルスの猛威であると考えられます。)状況に振り回されてしまうものの、周りの人たちの力添えにより過ごしていけるであろうとご教示いただきました。しかしAさんの祈りの姿がままならないのはなぜなのでしょうか。

私は「あなたを頼りにしているご先祖様の心当たりはありませんか?」「もしかしてお父さんかな・・・」と尋ねました。

お父さんは五年前に亡くなられていました。ご両親は当時離婚していたため、亡くなった父の生前、亡くなった後の状況を詳しく知ろうとせず現在に至っていました。ただ遺影だけはずっと家に置いてあり、一人暮らしをする際にも持ち込み、月命日にはお線香をあげて手を合わせていたと言います。しかしいつの間にかお線香をあげることも、手を合わせることもなくなり、遺影は押し入れに片づけた状態になってしまい、供養の心を忘れていました。

「どんなことがあってもお父さんはあなたの唯一の存在。あなたはお父さんにとってかけがえのない存在に変わりありません。」と伝えて、厄除け祈祷とお父さんの追善供養を執り行うことにしました。

この曼荼羅を身にたもちぬれば、王を武士のまほるがごとく、子ををやのあいするがごとく、魚の水をたのむがごとく、草木のあめをねがうがごとく、とりの木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつまりまほり、昼夜にかげのごとくまほらせ給ふ法にて候ふ。よくよく御信用あるべし。

妙心尼御前御返事
役に立つ ~ 自分の為に、誰かの為に ~

日蓮大聖人のおっしゃられる曼荼羅を身に保つということは、お題目の道を歩み続けるということです。お題目を持ち、行い、護り、弘めるという誓いに外なりません。そして何より深く、深く信仰する姿の事なのです。その先に必ず護りがあります。

何の巡り合わせか自分の厄除けに来たはずが、亡きお父さんへ手向ける供養の心を思い出すきっかけとなりました。倶生神月守を握りしめ手を合わせ祈るAさんの姿を拝見すると、それは亡くなったお父さんの為にお題目を唱えているように見えました。Aさんがお帰りになる姿はどこか晴れやかで、清々しさを感じられるものでした。

役に立つ ~ 自分の為に、誰かの為に ~

倶生神月守を胸に、体に気を付けながら、厄年には自分の為に祈りを捧げましょう。それと同時に今あるいのちに感謝し、塞ぎ込むのではなく、誰かの何かに役立つ年、「役年」と捉えて躍動する一年にいたしましょう。

※この記事は、教誌よろこび令和2年12月号に掲載された記事です。

イラスト 小川けんいち

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