福島県経王寺聖徒団
中田 憲孝
最近何の気なしにニュースを眺めていますと、国家間のトラブルや凶悪犯罪が目につく頻度が高まっているように感じます。
通り魔のような犯罪から誘拐殺人等、例えを挙げれば枚挙に暇がありません。中には個人の力だけでは避けられないこともありますが、これらの危険は決して対岸の火事や他人事では済まされないように感じます。
明日は我が身とは言うものの、危機は自分の身に降り掛かって来なければ自分の身に置き換えて考える人は少なく、考えたとしても本腰を入れて対策をとったりできないものです。一般的に、詐欺にあいやすい人は「自分は大丈夫」と思っている人が多いそうです。
災難に遭わない為の祈りとして「除災得幸」という祈願名目があります。これは読んで字の如く「災いを除いて幸いを得る」ことですが、祈りによってのみ実現するものではありません。例えば、日頃から神仏に祈っているからと、戸締りもしないで外出すれば空き巣の被害に遭ったり、危険だと言われている場所へ無防備に近づけば事故、災害に遭遇してしまいます。
神仏に御守護を祈る事は良い事であり、強い安心を頂ける功徳はありますが、神仏の御守護に全ての責任を負わせる考えは良い結果になりません。自ら難を呼び寄せながら御守護が無いと嘆く事は決してあってはならないのです。
何故なら、お参りして御守護を願う姿は、一見すると神仏の御守護を願っているように見えますが、本人の努力が伴っていなければ、ただ自分勝手で思い通りに事が進むことを祈っているだけの行為になってしまいます。それだと真剣に祈る姿ではなくなってしまい御守護も頂けません。
それではどうすれば良いのでしょうか。「君子危うきに近寄らず」と言われるように、危険を避ける為の最低限の自衛や準備が必要です。しかし、自分だけの力ではどうしようも出来ない事があります。
そのような時こそ必要となるのが祈りによる御守護です。その物事に真摯に取り組んだ上で手を合わせた時の祈りが、真剣で無い筈がありません。そこでもう一歩踏み込んで頂きたい事は、法華経の教えというのは、自分だけの幸福を願うものではないということです。
日蓮大聖人が『立正安国論』の中で、
汝すべからく一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祷らんものか
と示されているように、一身の安堵という自らの安全を祈るのであれば、同時に世の中全体がより良くなるように祈らなければなりません。東日本大震災や熊本地震等の支援活動を振り返ってみても、世の中全体が平穏であれば困った時に助けあう行動が多く生まれます。そういった社会が安心の社会と言えるのではないでしょうか。
倶生神月守を着帯してお題目を唱える私たちは、周りに信仰のありがたさを弘めていきましょう。それこそが南無妙法蓮華経の道を持ち、行い、護り、弘める信仰の実践です。
倶生神月守とお題目で救われる方の輪が広がり、安心な社会となりますように。
イラスト 小川けんいち