日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
よろこび法話 よろこび法話

#039
思い出と祈り

大分県大分市妙親寺聖徒団
廣田 千城

思い出と祈り

先日、母方の曾祖母の二十三回忌の法要をお勤めしました。

曾祖母が亡くなった当時、私は六歳で、おぼろげな記憶しかありません。そのような中でも覚えていることがあります。それは師父が曾祖母に対して強く声を掛け続けていたこと、病院独特の薬品の臭いに包まれていたこと、そして漠然と曾祖母が亡くなってしまったという、初めて感じる焦りのような気持ちを持ったことです。六感に染み付いた記憶は、おぼろげながらに確かな感覚として残っています。しかし、十代二十代と学生生活を過ごす中で、曾祖母の記憶は他の様々な刺激や新しい出会いと別れに上書きされ、どこか過去のものへとなっていました。

私は二十四歳の時に日蓮宗の僧侶となる修行を始めて、現在二十八歳になりました。僧侶になって私のご先祖様のこと、特に生活と時間を共有した方々のことをよく「考え」「祈る」ようになりました。そして考える中で色々と思い出されることがあります。記憶とは不思議なものです。叱られたり怒られたりしたこともあったはずですが、思い出される記憶は褒められて嬉しかったことや、楽しかったことばかりなのです。曾祖母が亡くなった悲しみを忘れると同時に、楽しかったことや優しさに包まれていたことも忘れていたことに気付かされました。

日蓮大聖人の御遺文に次のような一節があります。

今生には父母に孝養をいたす様なれども、後生のゆくへまで問人はなし。(中略)生てをはせし時は一日片時のわかれをば、千万日とこそ思はれしかども、十三年四千余日の程はつやつやをとづれなし。如何にきかまほしくましますらん

刑部左衛門尉女房御返事

同じ時間を共有した曾祖母の肉体は確かに無くなり、共有した時間も他の方々と比べて短い六年でした。しかしこの大聖人のお言葉に出会ったとき、私の心の中から曾祖母の存在自体が消えかけているということを実感しました。生前と死後を勝手に区別し、曾祖母を過去の存在にしてしまいました。更に思い出すという気持ちさえ失いかけていました。

人間の記憶と心の働きといえば聞こえは良いのですが、日々過ぎていく時間の中で徐々に思い出すことが無くなります。曾祖母はどのような気持ちで血の繋がった私を見ていたのか、これまでの二十数年間を強く懺悔しています。

思い出と祈り
今法華経の時こそ、女人成仏の時、悲母の成仏顕われ、達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕わるれ。此の経は内典の孝経也

開目鈔

人は悲しみながらも、その悲しみを忘れていきます。しかし過ぎ去る時間に身を任せるのではなく、どこかで再び思い出すように心がけることがとても大切なことです。思い出される内容は、良いことや悪いこと、伝えておきたかったこと、恥ずかしいことなど人それぞれでしょう。しかし思い出されるすべての事柄は縁のある人々との間に生まれた大切な気持ちの数々です。

過去の記憶を過去とせず、未来へと繋げて活かせるように現在を大切に過ごしましょう。そして現在の「祈り」は必ず、過去から現在までを包み、思い出される人々を現在から未来の「成仏」へと導きます。生と死の間に隔たりを作っているのは私たちで、そこに気付き隔たりを無くしていくのも私たちです。今この瞬間より確かな祈りを行い、その形として倶生神月守を着帯し日々の生活を過ごしましょう。想いは必ず伝わります。

イラスト 小川けんいち

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