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  • 第68話 無量義経の段 その二十六

    第68話 無量義経の段 その二十六

    第68話 無量義経の段 その二十六

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

    1.黙れ! 今の俺を昨日までと同じに思うなよ!(剣鉄也)

    無量義経 傳教大師 最澄

    智顗(ちぎ)禅師は滅後に天台大師と呼ばれるようになり、最澄上人も、その滅後に傳教大師の名が贈られました。 かように私たちが歴史上の人物の名前だと思っているものには、実は本人の生前中の名前ではなく、その死後に付けられたものも多々あるようです。

    一〇〇パーセントそれに当たるのが、日本の天皇陛下でしょう。 私たちが歴代天皇一覧で知る御名は、まず全てが、その業績に因むか、あるいは、お住いになられた場所に因んで崩御後に付けられたものです。

    殊に、御遺文(大聖人の著述の総称)でもお馴染みの、神武天皇・神功皇后・応神天皇・崇峻天皇等、古代の天皇(神話の世から奈良時代初期までね)の御名に至っては、奈良時代後期にまとめて贈られたもの。

    ご本人の時代から早い方でも数十年、初期の天皇に至っては崩御後、数百年も後になって作られた名前なわけですね。

    ですから、たとえば「大化の改新を断行された中大兄皇子は、即位して天智天皇になられた」や「天智天皇の御子の大友皇子を、壬申の乱で打倒された大海人皇子は、即位して天武天皇となった」等といった、よく聞くような説明も、厳密には違うわよ、なんですね。

    2.死者にたいする最高の手向けは、悲しみではなく感謝だ(ワイルダー)

    お隣の震旦(しんたん)の王様や皇帝で、御遺文でもお馴染な方々と言えば、同体異心の残念な大軍の長たる殷の紂王、異体同心の精鋭を率いた周の武王、ロイヤルガードに守られたるパルパティーンよろしく、四皓(しこう)に囲まれし漢の恵帝、そしてあの世界三大美女の一人、楊貴妃のお相手だった唐の玄宗等でしょうか。

    実はこの方々のお名前も、やはりその崩御後に贈られた名前。

    紂王(ちゅうおう)は子辛(ししん)、武王(ぶおう)は姫昌(きしょう)(なんかギャップが凄いですね)、恵帝(けいてい)は劉盈(りゅうえい)、そして玄宗(げんそう)は李隆基(りりゅうき)が生前のお名前です。

    そう、亡くなった後に生前とは違う名前を贈るのは、どうやら東亜細亜(あじあ)共通の伝統なんですね。(ていうか、ここ震旦から始まったんでしょうけどね)

    無量義経 秦の始皇帝

    3.俺は中華を統一する最初の王になる(贏政)

    しかし流石に四千年以上の歴史を誇る震旦だけに、時にはこの伝統に異を唱える人も出てくるもの。

    それが春秋時代・戦国時代と続いた戦乱を勝ち抜き、遂に震旦初の帝国を打ち立てた、秦の始皇帝。

    なにしろ、気に入らない本は全て焼き捨てるという、閲覧制限も真っ青なことを断行し、あまつさえ学者本人たちを纏めて生き埋めにしちゃう前代未聞の改革者。

    彼自身の本当の名は贏政(えいせい)ですが(キングダムでお馴染みですね)、自分の崩御後に勝手に名前を変えるのは怪(け)しからん、自分が最初の皇帝なんだから始皇帝でいい、次からは二世、三世と付けていけばいいだろうと、名前の変更をやめさせてしまったのです。(しかし彼は帝位に就いてからは、単に皇帝と呼ばれていたのですから、結局は皇帝から始皇帝に変わってるんですよね)

    しかし、そんな秦も、始皇帝の左道(悪政)ゆえに、その崩御後にあっさり崩壊したことは、皆さんご存じの通り。伝統への挑戦もあえなく崩れ去ったわけです。

    そうです、亡き方を偲び、死後に新たなる名を贈って供養することは、東亜細亜のいわば伝統。

    死んだ後に戒名法名を付けるなんて間違っている、なんて言い方も、昔からちょくちょくあるものですが、実は死後の戒名法名は、佛教の教えと東亜細亜の伝統(それも元々は一部の人たちだけの特権だったもの)のハイブリットなんですよね。

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一) 1.黙れ! 今の俺を昨日までと同じに思うなよ!(剣…

  • 第65話 諸国への遊学 その十八

    第65話 諸国への遊学 その十八

    第65話 諸国への遊学 その十八

    上宮太子と申せし人、漢土より始て佛法渡させ給て、其より以来于今七百余年の間、一切経並に法華経はひろまらせ給て、上一人より下万民に至まで、心あらむ人は法華経を一部、或は一巻、或は一品持て或は父母の孝養とす

    松野殿後家尼御前御返事(まつのどのごけあまごぜんごへんじ)

     いよいよ諸山巡りも終わりに近付いた蓮長(れんちょう)は、河内にある磯長の叡福寺を訪れました。

     叡福寺は聖徳太子が推古二十八(六二〇)年に、自らこの地を墓所と定められたとされる由緒ある寺院です。その翌年には太子のご生母である穴穂部間人皇后が崩御され、この地に埋葬されました。そして推古三十(六二二)年、太子のお妃である膳部菩岐々美郎女、そして翌日には後を追うように太子ご自身が相次いで薨去され、共にこの地に追葬されたといわれています。

     推古天皇は太子の没後にその菩提を弔わんと願い、ここに御廟をお守りするための僧坊十姻を建立します。それが当寺の始まりであるとされています。更にその後の神亀元(七二四)年には、聖武天皇の勅願によって東院(転法輪寺)、西院(叡福寺)などが建立され、やがて現在の叡福寺に至る伽藍が整えられました。

     蓮長はこの叡福寺の太子廟に詣で、そこで七日間の参籠に入ったといわれています。以前に和泉の四天王寺を訪れたことをお話ししましたが、他にも法隆寺夢殿への参詣、そしてこの叡福寺での御廟参と、折にふれ太子縁の寺院を歴訪する蓮長の行いを見れば、やはり蓮長にとって太子は特別な存在であったことが伺えます。それを思えば、この日本国に佛法を弘めた大恩人たる聖徳太子の尊霊に額づき、二十年もの間修め続けた学問の成果をご報告し、そしてその研鑽によって導き出された答えとして、今胸中にはっきりと浮かぶ己が使命への決意を、太子にお誓い申し上げたに違いありません。

     やがて七日目の夜を迎え、その行も満ちようとする中で蓮長は夜を通して法華経を読誦していました。すると不思議なことに、誰一人いなかった筈の墓前に眩く輝く人の姿が現れます。蓮長が目をこらしてその姿を見れば、なんとそこに現れたお方は、聖徳太子その人であったのです。

     衣冠を正したお姿の太子は、そっと蓮長の前に立たれました。蓮長は驚きながらもそのお顔を拝すると、満面の笑みをたたえておられます。それはまるで、太子ご自身が大切にされた法華経を弘めんと決意する蓮長の思いを、殊の外お喜びになっているような優しい微笑みでした。

    イラスト 小川けんいち

    ※この記事は、教誌よろこび平成29年3月号に掲載された記事です。

    上宮太子と申せし人、漢土より始て佛法渡させ給て、其より以来于今七百余年の間、一切経並に法華経はひろまらせ給て、…

  • 第67話 無量義経の段 その二十五

    第67話 無量義経の段 その二十五

    第67話 無量義経の段 その二十五

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

    1.死せるものは、必ずまた生きる
    (ヒンドゥー聖典)

    薬王菩薩の使命は、お釈迦様と日蓮大聖人の間を繋ぐこと。 前世紀最高の物理学者といえば、ご存知アインシュタインですが、その天才といえども、それまでの物理学者たちの活躍の歴史あってこそ、はじめて相対性理論が発見できたもの。大聖人もご本佛お釈迦様の直弟子であっても、地上においては、弐千年に亘る法華経の信仰と教学の歴史があってこそ、はじめて日蓮佛教の宣言に至れるわけです。 その歴史を繋ぐため、薬王菩薩は人の世にやってきたのです。それも一度とならず二度までも・・・。 一度目は天台大師として震旦に、そして二度目は伝教大師としてここ日本に転生されたのです。

    2.日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや
    (聖徳太子)

    天台大師とは、西暦でいう五三八年に震旦は今の湖南省(毛沢東の出身地ですね) に誕生され、西暦五九六年にご入滅(お亡くなりになること)された、天台宗の高僧です。その当時の震旦は、南北朝時代の終わり頃から隋の時代(聖徳太子から超上から目線の国書を送くられちゃった国が、この隋なんですね)、日本では古墳時代から飛鳥時代の初め頃に当たります。続く伝教大師は、西暦の七六六年(七六七年説もあり)に、日本は今の滋賀県に誕生され、八二二年にご入滅された、日本天台宗の開祖です。時代は奈良時代から平安時代の初期となります。古墳時代から平安の初期といえば、お釈迦様ご入滅後の正法壱千年・像法壱千年・末法万年の三区分の内、どちらも像法の時代。

    まさに、まさにお釈迦様と末法の日蓮大聖人との間に位置しているんですね。

    3.おれの名をいってみろ!!
    (ジャギ)

    とはいうものの、これは決して、震旦は隋の時代に天台大師という高僧が活躍された、平安時代に伝教大師と呼ばれた高僧が活躍された、という意味ではありません。隋の時代に活躍された天台宗の高僧とは智顗(ちぎ)禅師であり、平安時代に日本で天台宗を開かれた高僧とは最澄上人のこと。

    同様に最澄上人へは、その亡き後に「伝教大師」の名が贈られたのです。

    そう、今では天台大師、伝教大師、天台大師、伝教大師…と当り前のように言っていますが、実はどちらも当人の生前中には全然使われなかった名前、その亡き後に作られた名前なんですね。

    4.骨肉の愛情で国家を捨てられない
    (孝明天皇)

    「八重の桜」では七代目市川染五郎が孝明天皇を演じていました。

    又、その前の「平清盛」では松田翔太が後白河法皇を演じていました。

    でも本当は孝明天皇という御名も後白河法皇という御名も、その生前のお名前ではありません。

    江戸末期に即位された第一二一代天皇は、その本来の御名を統仁(おさひと)と言われ、崩御後に孝明天皇という御名が贈られました。

    同様に平安末期に即位された第七七代天皇は、その本来の名を雅仁(まさひと)。

    退位され出家されてからは行真法皇と名乗られました。

    その法皇の崩御後に贈られた御名が後白河院であり、さらに改めて後白河天皇の御名が贈られたのは、七〇〇年後!の明治になってから・・・。

    こうした、今では当たり前のように使ってる名前が、その当時とは全然違うという例、実はまだまだ沢山あるんですね・・・。


    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一) 1.死せるものは、必ずまた生きる(ヒンドゥー聖典)…

  • 第64話 諸国への遊学 その十七

    第64話 諸国への遊学 その十七

    第64話 諸国への遊学 その十七

    聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う。儒家の三皇・五帝並びに三聖は、ただ現在を知つて過・未を知らず。外道は過去八万・未来八万を知る。一分の聖人なり。(中略)法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す。一代超過これなり。本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をもこれを演説し、また未来無数劫の事をも宣伝す

    聖人知三世事(しょうにんちさんぜじ)

     京都に滞在中の蓮長(れんちょう)は、五条付近にあった天王寺屋浄本の屋敷を宿所としたといわれています。天王寺屋浄本は、本屋であったという説が一般的ではありますが、一方で天王寺の役職に就いていたとする説があります。それ故に『本化別頭仏祖統記(ほんげべつずぶっそとうき)』などでは、大聖人が天王寺の秘笥を披くことが出来たのは、この天王寺屋浄本の仲介によるものだとされています。それにしても、学僧として学んでいる時期に既にこれだけの有力者たちが周囲に存在していたことには、いったいどういった伝手によるものなのか、改めてその不思議さに驚かされます。

     後にこの浄本は、妻の妙蓮と共に大聖人の弟子となります。そしてこの屋敷を精舎と改め、夫妻の名を一文字ずつとって「本蓮寺」と号しました。残念ながらこの本蓮寺は天文五(一五三六)年の天文法難で消失してしまいますが、妙堯禅尼と称す尼僧によって妙堯寺として移築、再興され、天王寺屋夫妻の墓所も現在この寺院に安置されています。

     蓮長はこの京都での滞在中に、儒教を学んだとされます。冒頭の御書に見られるように、大聖人は折に触れ儒教や外道(佛教以外のインドの教え)に対して、佛教がいかに優れているかを述べておられます。それは何の根拠もなくただご自身の信ずる佛法を賛美しているのではなく、こうして修学中に学んだ様々な分野にわたる学識を以てのことなのです。もちろん蓮長のことですので、その知識たるや儒家に劣らぬ非常に高度なものであったことは間違いありません。

     また同時期に和歌の手解きも受けたといわれています。和歌の習い事と聞くと、何となく趣味的な印象を受けてしまいますので、「大切な留学中にそんなことにうつつを抜かして…」と思ってしまうかもしれません。しかし書道や歌道などの手習いを修得することも、当時の教養ある文化人として認められる上でとても大切なことでした。

     後の大聖人の御書に見られる歌の数はそれ程多くはありませんが、大切な人を亡くした婦人に対してその悲しみを詠まれたものなど、そのお言葉はとても心に響くものです。大聖人はご自身の感得された崇高な法門を厳しく教え導く一方で、人々の苦しみや悲しみを共に歎くその御心を優しく歌に詠み、弟子檀越の一人ひとりに寄り添うようにお言葉をかけられているのです。

    イラスト 小川けんいち

    ※この記事は、教誌よろこび平成29年2月号に掲載された記事です。

    聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う。儒家の三皇・五帝並びに三聖は、ただ現在を知つて過・未を知らず。外道は…

  • 第66話 無量義経の段 その二十四

    第66話 無量義経の段 その二十四

    第66話 無量義経の段 その二十四

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

    1.大きな夢は人に理解されない(本田宗一郎)

    無量義経 法華経

    結局のところ、法華経がホントに伝えたかったこと、言いたかったことって、ほとんど「知らぬ、通じぬ!」状態だったわけですね(だからこそ、日蓮大聖人が登場される意味があるんです)。

    されどいかに真意は伝わらぬとも、それで誰にも興味を持ってくれないマイナーなお経になってしまっては大変です。

    大正新脩大蔵経(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)と呼ばれる、大正時代までに日本に伝わった漢訳のお経(震旦(しんたん)で訳されたお経。法華経三部経も漢訳経典です)を総結集した大全集に収録されたお経だけでも、千七十六部にして一万千九百七十巻!更には日本に伝わらなかったもの、そもそも震旦にさえ伝わらなかったお経もあるわけですから、その数はまさに厖大!八千四百も、あながちハッタリとは言えません。

    それだけに、そのタイトルさえ滅多に耳にしない、いわば埋もれたお経も半端な数ではありません。たとえ一時は持て囃されても、時と共に忘れ去られて行ったお経も、多々あったことでしょう。

    その真意が理解されなかった法華経とて、あるいは時の流れと共に忘れ去られ、埋没してしまうリスクは大きかったのではないでしょうか・・・。

    2.能書きはいいんだよ、能書きは(中尾彬)

    されど法華経は決して埋もれず、それどころか逆に佛教史上必ずと言って良いほど「有難いお経」、「大事なお経」として時と場所を超えて信仰され、受け継がれてきました。

    この信仰の絶え間ない継続あればこそ、ついに日蓮大聖人の出番へと繋がって行ったのです。

    たしかに壽量御本佛の存在も、地涌(じゆ)の菩薩の重要さも、かつてはほとんど注目されませんでした。にも関わらず、法華経の人気が衰えなかった訳・・・。実はそれこそが、法華経の全編にわたって説き示される「ご利益」だったのです。

    そう法華経といえば、それこそご利益のオンパレード。

    なにしろ法華経を忌み嫌う人の言い分と言えば「法華経には薬の効能は書いてあるが、肝心の丸薬が何であるかが書かれていない」が、古来から定番のフレーズとなるくらい、法華経に説かれていることの大半は、まさにご利益ご利生の嵐だったんですね。

    無量義経 薬王菩薩

    3.その者蒼き衣を纏いて金色の野に降り立つべし(大ババ)

    祈ることすらしない人、不思議なことを否定すれば賢いと思っている人には、確かに理解しがたい不都合なる事実なんでしょうが、それでも法華経にご利益、ご利生があるのは、まさに厳然たる事実。

    その事実を事実と謳(うた)い、人々に実際の利益を授け続けたからこそ、たとえその真意は通じずとも、法華経信仰の火は消えることなく広がり続け、ついに日蓮大聖人の代に行き着いたわけです。

    まさにご利益こそは法華経信仰の存続の要(かなめ)!

    たとえクライマックスは終わっても、六章にもわたって菩薩たちの競演が続いたのも、念には念を入れて、ご利益を喧伝するためだったのです。

    そしてそこでもまた、最多登場で活躍されるお方こそが、あの薬王菩薩(やくおうぼさつ)なのです。

    薬王菩薩の何よりの願いは、法華経を未来の世、末法の世へと繋ぐこと、日蓮大聖人の元へと届けることだったんですね。さればこそ、やがて薬王菩薩は自ら人の姿となって、人の世の歴史に降り立つことになるのです。それも二度、かの震旦と、ここ日本の地に・・・。

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一) 1.大きな夢は人に理解されない(本田宗一郎) 結局…

  • 第63話 諸国への遊学 その十六

    第63話 諸国への遊学 その十六

    第63話 諸国への遊学 その十六

    同十月二十八日に佐渡の国へ着きぬ。十一月一日に、六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に、一間四面なる堂の佛もなし

    種種御振舞御書(しゅじゅおんふるまいごしょ)

     円爾(えんに)や蘭渓道隆(らんけい)(どうりゅう)を訪ねた後、蓮長(れんちょう)は京の都に滞在したと言われています。

     冒頭のご文章は、後に大聖人が佐渡流罪の際に幽閉された塚原三昧堂の様子を記したものです。面白いのは、ここに「落陽の蓮台野のや(よ)うに」という譬えが見られます。

     蓮台野とは、当時の京都で風葬を行うための葬送地でした。今でこそ、人が亡くなれば火葬を行うのが一般的となっています。しかし当時は大量の薪を燃やして遺体を荼毘に付す、あるいはきちんとした棺に納め副葬品と共に埋葬するなど、裕福な上流階級者だけが行える贅沢な葬送方で、貧しい暮らしを送る庶民には到底かなうものではありませんでした。そのため一般庶民は、洛外に運んで何日も野に晒し、風化するのを待つ風葬を行っていました。その風葬を行うための葬送地が、嵐山北部にある化野、東山の鳥部野、そして船岡山の北西一帯の蓮台野であったのです。

     蓮長が京都を巡った詳しい足取りは、もちろん知る術もありません。しかし少なくとも当時の蓮台野を訪れ、その光景を目にしていたことはこのご文章を見ても明らかです。

     佐渡の塚原も「死人を捨る所」とあるように、やはり蓮台野と同じく葬送地でした。雪深い極寒の佐渡での厳しい生活も相まって、かつてご自身が蓮長として各地を巡っていた頃、京都にて目にした蓮台野のもの悲しい光景を、ふと大聖人は思い出されたのでしょう。

     鎌倉時代の人々の悲惨な暮らしぶりは、もはやご説明するまでもないこと。大聖人も折に触れ、その惨状を書き記されておられます。それを思えば、飢えや病、度重なる災害や争いにて命を落とした人々の骸が、文字通り山のように横たわっていたに違いありません。そこには平穏に寿命を迎えられた者など殆どなく、数年、数ヶ月しか生きられなかった幼き子供の哀れな亡骸は、蓮長にこの娑婆世界が末法を迎えていることを、改めて知らしめているのです。

    イラスト 小川けんいち

    ※この記事は、教誌よろこび平成29年1月号に掲載された記事です。

    同十月二十八日に佐渡の国へ着きぬ。十一月一日に、六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮…

  • 第65話 無量義経の段 その二十三

    第65話 無量義経の段 その二十三

    第65話 無量義経の段 その二十三

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

    1.終わりよければ全てよし(シェイクスピア)

    無量義経 地涌の菩薩

    繰り返しますね。

    序品第一をプロローグとして始まった妙法蓮華経八巻二十八品(二十八章)は、続く方便品第二から授学無学人記品第九にわたって、まずは印度におけるお釈迦様のお弟子さんたち[声聞(しょうもん)]の最終的な救いが説かれます。

    これでお釈迦様ご在世が総決算されます。

    よって次の法師品第十からは、お釈迦様ご入滅(お亡くなりになること)後の救い、なかんずく恐怖の末法時代における救いがテーマとなります。

    その救いの実行者、お釈迦様の遺志を受け継ぐものとして、ついにお姿を現されるのが、地湧(じゆ)の菩薩のグループなのです。

    地湧の菩薩様たちの登場によって、一気にクライマックスを迎えた本編は、如来神力品第二十一において、ご本佛様から地湧の菩薩方へお題目の委託がなされ、そして、嘱累品(ぞくるいほん)第二十二における全聴衆への法華経の委託によって、問題は全て解決とあいなります。

    そう、大事なことは二十二章にて解決したわけです。変な話、実際ここで妙法蓮華経というお経はフィナーレを迎えてもよかったはずなのです。

    2.まだだ、まだ終わらんよ(クワトロ・バジーナ大尉)

    されど妙法蓮華経は、全二十八章にて成り立つお経。まだまだ残り六章も続きます。

    すなわち、薬王菩薩の前世の因縁を明かし、その功徳を説く薬王菩薩本事品第二十三。忽然たるビジター、妙音菩薩の功徳を説く妙音菩薩品第二十四。誰もが知ってる観音様の功徳を説く観世音菩薩普門品第二十五。薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天王、持国天王、そして鬼子母神・十羅刹女がマントラを説く陀羅尼品第二十六。薬王菩薩、薬上菩薩、妙音菩薩の過去世での活躍を明かす妙荘厳王本事品第二十七。遅れてきたスーパースター、普賢菩薩の功徳を説く普賢菩薩勧発品第二十八。

    ざっくり見ただけでもお分かりでしょう、佛教界を代表するスターたちが入れ替わり立ち代わり登場しては、その輝けるステータスが披露されていくわけです。

    法華経そのものよりも、まずこの菩薩様や神々の功徳を前面にフューチャーすることで、結果的にそのバックグランドたる法華経の偉大さに結び付ける手法なんですね。第二十五章が観音経として親しまれ、今だ多くの方に信仰されているのも、この全面フューチャーの大成功が行き着いた結果といえます。

    無量義経 観世音菩薩

    3.試大声は里耳に入らず(荘子)

    なぜ末法の救いの道が補完された後で、スターたちの饗宴が展開されるのでしょうか。それは、一番大事なことは、そうそう簡単には理解されない(あるいは、されてはいけない)ということです。

    地湧の菩薩こそは、数多の菩薩様たちの中で、最も偉大なる最高位の菩薩様たち。それは、法華経を読めば一目瞭然です。

    されど皆さん、たとえば日本が誇る奈良や京の素晴らしき佛像の展示において、はたして上行菩薩像や浄行菩薩像を拝観された方はおられるでしょうか。シルクロードの番組にて、無辺行菩薩や安立行菩薩の遺品を見た方はおられるでしょうか・・・。

    そうです。以前にも申しましたように、佛像(というか、ぶっちゃけ佛教そのもの)の歴史において、地湧の菩薩方は、ずっと忘れられていたも同然の扱いだったのです。

    ご本佛お釈迦様に関しても同様です。

    如来寿量品にああまであからさまに説かれているのに、「やっぱー、根源の佛様はビル遮那如来ですよね」「いやいや、大日如来こそ、宇宙の根源でしょ」なんて言っている人たちこそ、佛教界の王道だったりするのです。

    妙法蓮華経に説かれた大事な教えは、実はずっとず~っと無視同然だったんですね・・・。

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一) 1.終わりよければ全てよし(シェイクスピア) 繰り…

  • 第62話 諸国への遊学 その十五

    第62話 諸国への遊学 その十五

    第62話 諸国への遊学 その十五

    日月転た短く善者甚だ少くもしは一もしは二人等云云。又云く、衆魔の比丘命終の後、精神まさに無択地獄に堕すべし等云云。今道隆が一党、良観が一党、聖一が一党、日本国の一切四衆等はこの経文に当るなり

    真言諸宗違目

     四天王寺を後にした蓮長(れんちょう)は、次いで円爾(えんに) や蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) を訪ねたと言われています。臨済禅を代表する両師の名は、良観と並ぶ批判対象として大聖人の御書によく登場します。冒頭の御書にあるように、「道隆」はむろん蘭渓道隆のこと、円爾は後に藤原道家より「聖一和尚」の号を授かりますので、「聖一」と記されるのが円爾のことです。

     因みに聖一といえば「聖一国師」の法号が有名ですが、これは滅後一三〇〇年頃に花園天皇より諡号として贈られたものですので、大聖人ご在世のころは同じ聖一でもまだ「聖一和尚」となります。

     両師共に禅宗の教えを宋よりこの国に伝え弘めた高僧として知られますが、道隆は渡来僧、円爾は日本よりの留学僧です。両者共にほぼ同時代に南宋にて臨済禅を学び、また無準師範よりの教えを受け継ぐなどの共通点を持っていました。

     道隆はこの時、京都東山の来迎院に招かれていたとされ、蓮長はそこに道隆を訪ねたようです。来迎院は本寺である泉涌寺の子院の一つですが、泉涌寺もまた叡山や四天王寺と同じく律、密、禅、浄土の四宗兼学が謳われていました。一見すると学問が盛んなようには見えますが、権実を一絡げにし、無分別にただ文々句々を諳んずるだけの誤った佛法(もはや佛法とも呼べませんが)が、尊き教えのごとく世にもてはやされていたのです。

     そして円爾の宗風もまた、禅密兼修を旨としていました。禅門を中心としながらも、真言や天台の密教教義などを巧みに取り入れ、独自の教えを弘めていきました。それはまさに四宗兼学を地で行くスタイルであったのです。

     蓮長はそんな両師の法門を聞きながらも、当然その教え自体に救いを求めるような姿勢ではなかったでしょう。既に深い智慧を身に付けた蓮長にとって、耳より入る両師の教風は、返って現在の佛教界が直面している障礙を浮き彫りにし、己が為すべきこと、弘めるべき教えを確信させてくれる、貴重な材料となっていくのです。

    イラスト 小川けんいち

    ※この記事は、教誌よろこび平成28年11月号に掲載された記事です。

    日月転た短く善者甚だ少くもしは一もしは二人等云云。又云く、衆魔の比丘命終の後、精神まさに無択地獄に堕すべし等云…

  • 第64話 無量義経の段 その二十二

    第64話 無量義経の段 その二十二

    第64話 無量義経の段 その二十二

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

    1.ミッションの価値は、正しい行動をもたらすことにある
    (ピーター・F・ドラッカー)

    正法・像法・末法三時のうち、最も恐るべき時代、絶望と恐怖が支配する末法万年の時代に、いったい誰が法華経を流布していくのか・・・。

    いわば佛教史上最難関といえる、このミッションに答えんがため、第十五章(従地湧出品第十五)にて満を持して登場された方たちこそが、我らの上行菩薩様(=日蓮大聖人)をリーダーに頂く地涌(じゆ)の菩薩の方々たちだったのです。

    この、いわば菩薩グループの永久センターともいうべき、地涌の菩薩の出陣に呼応するが如く、続く第十六章(あまりにもお馴染みの如来寿量品第十六)にて、お釈迦様もついにその神秘のベールを脱がれ、壽量ご本佛たる真のお姿を顕現されることとあいなったのです。

    さらに第二十一章(如来神力品第廿一)において、ついに法華経の要(かなめ)たるお題目が、ご本佛お釈迦様から上行菩薩様たちへ託されることとなるわけです。

    2.私は太平洋の橋になりたい
    (新渡戸稲造)

    つまり地涌の菩薩の登場からこそが、法華三部経全体のクライマックス、最大のイベントが目白押しとなるわけです。それはまた後々のお話として、この連載で今回注目したいこと、それはこの法華経の最重要イベントへのフラグは、畢竟(ひっきょう)、薬王菩薩のイベントによって発動している!という点です。

    (前回もお話いたしましたように)声聞(しょうもん)(印度でのお釈迦様のお弟子グループ)への成佛預言というお釈迦様ご在世の教化の総決算を終え、次いでお釈迦様ご自身の滅後の問題を語りかけたお相手こそが、この薬王菩薩なのです。しかも滅後の法華経流布への呼びかけに、最初に手を挙げられた方も、やはり薬王菩薩でした。

    お釈迦さまと薬王菩薩の会話が進むことによって、それまでお釈迦様ご在世のために説かれていた法華経から、末法のために説かれる法華経へとテーマの一大転換が行われているわけです。

    そう、薬王菩薩こそは、お釈迦様ご在世と末法の橋渡しなんですね。

    3.試合は終わるまで終わらない
    (ヨギ・ベラ)

    しかも薬王菩薩の活動は、ただそれだけで終わることはありません。

    神力品第廿一において、お題目を地涌の菩薩たちへ託されたお釈迦様は、続く第廿二章(嘱累品第廿二)にて、その場に集結されていた全ての聴衆に対し、あらためて法華経を託し、滅後の流布問題を補完されました。

    妙法蓮華経八巻廿八品(さらには法華三部経十巻)における一番肝心なテーマはここで完結します。

    ゆえに上行菩薩様をはじめとする地涌の菩薩たちは、全員その場から立ち去っていかれます。来たるべき末法のその時まで、お隠れになられたのです・・・。

    要するに、これにて法華経一大絵巻ついに一巻の終わり!と、誰もが納得できる状況となったわけです。

    されど思いだして下さい。

    孔明(こうめい)死すとも三国志演義終わらず。またボドルザー司令率いるゼントラーディ艦隊がミンメイの歌によって壊滅しても、超時空要塞マクロスの放映は終わることなく、さらには世紀末覇者拳王が天に還っても、ケンシロウの戦いの日々は終わらなかったことを・・・。

    そうです。実質クライマックスを迎えても、それでお話の全てが完結するわけではないのです。

    お題目を託されし地涌の菩薩たちが去って後も、法華経の説法はまだまだ終わりません。

    末法の問題がクリアするやいなや、話は一転、話題はなぜか薬王菩薩の前世、過去の因縁談とあいなるのです。

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一) 1.ミッションの価値は、正しい行動をもたらすことに…

  • 第61話 諸国への遊学 その十四

    第61話 諸国への遊学 その十四

    第61話 諸国への遊学 その十四

    上宮太子と申せし人、漢土より始て佛法渡させ給て、其より以来于今七百余年の間、一切経並に法華経はひろまらせ給て、上一人より下万民に至まで、心あらむ人は法華経を一部、或は一巻、或は一品持て或は父母の孝養とす

    松野殿後家尼御前御返事

     前回は余談がだいぶ長くなって(と言うより、余談だけで終わって)しまいましたが、今月はようやく本題の四天王寺のお話です。

     高野山よりの帰路、和泉へ足を伸ばした蓮長(れんちょう)は、八宗兼学の学問道場として名高い四天王寺を訪れます。八宗とは、三論、実成、法相、倶舎、華厳、律のいわゆる南都六宗の古流学派に、当時としては比較的新興の天台、真言を加えた八つの宗派を指します。「八宗兼学」ですので、それらの教えがすべて学べる学問道場を意味しています。つまりこの四天王寺で学ぶことは、当時の日の本で主流とされる佛教教義を、すべて網羅できることとなるのです。

     以前にもお話した通り、蓮長が南都六宗を巡って学んだという具体的な記述は、残されていません。しかしこうした点より推測しても、天台、真言、禅、念佛(これらは四宗と呼ばれ、やはり兼学の道場である比叡山で学ぶことができます)のみならず、南都の教義をほぼ修得していたことは、間違いないと思われます。

     四天王寺は、言わずと知れた上宮太子、すなわち聖徳太子によって推古天皇元(五九三)年に建立された、我が国最古ともいわれる古刹中の古刹です。

     日蓮大聖人は、この国で初めて佛教を重んじ、国作りの基盤としてその教を弘めることに尽力された聖徳太子を、殊のほか尊崇されておられました。大聖人が弟子檀那に対して度々申される「異体同心」の精神は、すなわち聖徳太子の「和を以て貴しとなす」と同義であるといえます。そして、その精神が高々と掲げられた十七条の憲法によって、初めての法治国家の形成を目指した太子の志は、大聖人が生涯にわたって説き続けられた「立正安国(正法を以て国を安んず)」の思想に、大変大きな影響を与えられたことでしょう。

     そう思えば、わずかな期間とはいえ四天王寺での滞在は、八宗兼学の大事さはもとより、聖徳太子の魂にふれることの出来た、素晴らしき日々であったことでしょう。しかしその反面、八宗兼学を謳う故に諸宗にこだわらない四天王寺の学風が災いし、当時の流行であった浄土信仰が山内には蔓延していました。誰が弘めたものか、四天王寺の西門は極楽浄土に通じる門との噂が流れ、彼岸の頃ともなればその門から沈む夕日を拝もうと、多数の信者が参詣する有様であったといわれています。

     この国に初めて法華経を弘めんとした大恩人である太子所縁の寺が、何の根拠もなく西に沈む夕日を拝む迷信の大衆で溢れかえる様を、はたして蓮長はどのような思いで見つめていたのでしょうか。

    イラスト 小川けんいち

    ※この記事は、教誌よろこび平成28年10月号に掲載された記事です。

    上宮太子と申せし人、漢土より始て佛法渡させ給て、其より以来于今七百余年の間、一切経並に法華経はひろまらせ給て、…