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  • 第69話帰郷への道程その三

    第69話帰郷への道程その三

    第69話帰郷への道程その三

    日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて、我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い候て、真言の秘教をあらあら習ひ、此事を尋ね勘るに、一人として答をする人なし

    善無畏三蔵鈔

    修学の締め括りとして京や奈良、果ては高野山に至るまで要所を尋ね歩いた蓮長(れんちょう)ですが、この書に見られるように、既にその奥義にまで達していた学識の高さ故に、その問いに答えることの出来る者は誰一人としていませんでした。それはまた、蓮長が最勝と定めた法華経の教義に対し、勝る教えが存在しないことを示していたのです。

    後に大聖人はその弘教のご生涯の中で、真言宗との対決を最終目的としていたことが、様々な御書の内容の変遷の中で伺い知れます。鎌倉期においては、真言宗は鎮護国家の法と定められる程の一大勢力をなしていましたので、まずは民衆に近い念佛や禅といった諸宗を責め、最終的には真に国を安んずるには真言の邪法を止め、法華経による祈りでなければならないとの真義を明かしていくお考えであったのでしょう。

    以前ご紹介した『五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)』の書写は、決してその奥義を学ぶ為などではなく、改めて法華経と真言とを比較し、東密の失を確認するものであったことは、既にお気付きのことでしょう。そもそも『五輪九字明秘密釈』は、高野山にまで蔓延る浄土教の教えを打破することを目的として、密教教義の中に浄土門を接収しようと目論んだ覚鑁によって記されたものでした。蓮長はその過ちを見定め、かつてはその有用性を認めた真言密教も、今や亡国の教えと成り下がってしまったことを確信するのです。

    十年前、まだ初めての鎌倉遊学を終えたばかりで『戒体即身成佛義(かいたいそくしんじょうぶつぎ)』を記し、真言宗の「事勝」を信じていた頃の蓮長とは、今や比べようのない程の深き知識を得ていました。その名こそ未だ「蓮長」ではありますが、間もなく名を改めるお方のすべてが、その御身に満ちているのです。

    京を離れた蓮長は再び叡山の定光院へ戻りました。そして天台大師の最重要講義ともいえる『摩訶止観(まかしかん)』の研鑽に、残された僅かな日々を費やしていくのです。

    日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて、我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い候て、真言の秘教をあらあら習ひ、此…

  • 第71話 無量義経の段 その二十九

    第71話 無量義経の段 その二十九

    第71話 無量義経の段 その二十九

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

    1.結婚して姓が変わってもいいよう、記念体育館はサオリーナと名づけたい(吉田沙保里)

    トヨトミノ秀吉こと羽柴藤吉郎豊臣朝臣(とよとみのあそん)秀吉は、苗字が羽柴で姓は豊臣。で、本当の名前が秀吉となります。

    秀吉と言えば、まるでピチュー→ピカチュウ→ライチュウの如く、木下→羽柴→豊臣と華麗なる三段進化で出世して行ったと思われがちですけど、実は苗字が変わったのは木下から羽柴の一回だけ。

    豊臣の姓を帝から賜っても、羽柴が苗字であることには変わりないんですね。

    無量義経 織田信長

    かように、関白となるため秀吉は新たなる姓を賜り、家康は幕府を開くために武家のスーパーブランドたる源の出身(すいません!前回、家康は最初、平姓だったというのは勘違いでした!ホントは最初、公家のスーパーブランドたる藤原家を名乗ってたんです。で、それをあっさりないことにして)だと主張したわけなんです(信長は行く行くどうしたかったんでしょうね)。

    で、今となっては信長と家康は苗字とセットで、秀吉は姓とセットと、多少の違いはあっても、三人揃っておくり名ではなく、存命中の本当の名前、本名で名を遺しちゃったわけなんですね。

    2.藤きちろう、れんれんふそくのむね申のよし、こん五たうたんくせ事候か、いつかたをあひたつね、それさまほとのハ、又ニたひ、かのはげねすみあひもとめかたきあひた(織田信長)

    されどされど、信長・秀吉・家康は、たしかに本人自ら使用していた、まぎれもなき本名ではあるんですが、(再三しつこく言ってますように)実はこの本名というもの、みだりに他人が口にすべきもんじゃ~なかったんですね。

    ですから秀吉が「信長様!」と言うのは勿論のこと、信長重臣の面々が「秀吉殿」と呼ぶことすら、ちょっとできない相談なんですね。

    もちろん上司たる信長だって、「サル!」とか「ハゲネズミ!」とはよう言うても、人前で「秀吉!」とはそうそう頻繁には(多分)言わなかったはず。

    そう、本名とは滅多なことでは口にするのを忌むべきもの、忌むべき名、諱(いみな)だったんです。

    3.上総殿か、入洛めでたし(九条植通)

    無量義経

    通常、本名(諱)を他人が口にすることは、厳重なる禁句。

    で、代わりに口にされるのが、まずは字(あざな)となります。

    織田三郎平朝臣信長であれば、「三郎」の部分。羽柴藤吉郎豊臣朝臣秀吉であれば、「藤吉郎」の部分。徳川次郎三郎源朝臣家康であれば、「次郎三郎」の部分が字になります。

    家族だけなどの親しい間柄や、プライベートな場でなら、この字で呼び合えばいいわけです。

    さらに、彼らお偉いさんの場合なら、通常は役職名で呼ばれることになります。

    これは当然、役職が変われば呼び方も変わるわけですから、信長なら「織田上総介」に「織田弾張忠」等を経て、「右府様」あるいは「上様」へ。

    秀吉なら「羽柴筑前守」から始まって、遂には「太閣殿下」まで。家康なら「三河守」から艱難辛苦の末に「御所様」となり、更に「大御所様」とクラスチェンジしていったわけです。

    現代人としては、そんな名前がクルクル変わって面倒じゃん!と思ってしまうところですが、どんなに面倒であっても、古の人々は本当の名を口にすることを、自他共に憚りました。

    そう、昔の人は知っていたのです、名前というものの、本当の意味、神秘なる本質を・・・。

    名前本来の意味、実はそれこそが、お題目「南無妙法蓮華経」のあの絶大なるパワーの根拠なのです・・・。

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一) 1.結婚して姓が変わってもいいよう、記念体育館はサ…

  • 第58回 現世安穏 後生善処

    第58回 現世安穏 後生善処

    第58回 現世安穏 後生善処

    日蓮宗全国霊断師会連合会常任理事
    大阪府霊断師会 会長
    龍妙寺聖徒団 団長
    芦田勝康

    どんなことでも、お寺に相談してください。

    毎月の盛運祈願会において皆さまとお題目をお唱えし、お話しをさせて頂くときには、そのようにお伝えしています。

    爾の時に無数千万億の衆生、仏所に来至して法を聴く。(略)是の法を聞きおわって現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け、亦法を聞くことを得。

    法華経薬草喩品第五

    妙法を信受する人は、仏の法力によって今生きている現実の世では安らかで穏やかになり、後の未来世でも善き処に生まれて幸いを得ることができ、また法を聞くことができると法華経に説かれています。そのような寿量本佛の平等の慈悲と偉大な救済活動は、まずはお寺でお話しして頂くことから多くの方にそそがれるという考えから、些細なことでも気軽に相談してくださいとお声かけをさせて頂いているのです。

    先日も、信徒の女性からとある相談を受けました。

    庭に植わっている三メートルを越えるゴールドクレストの木が、道路にはみ出してきたうえに、倒木のおそれも出てきたために伐採してよいものか悩んでいるというのです。

    この女性は、元は関西に住んでおられましたが千葉県市原市に移住、当山とご縁があり、現在も年に数度は飛行機に乗って参拝されている熱心な信仰をお持ちの方で、ご家族で倶生神月守を着帯し、何かがあったときには、日ごろから九識霊断法を受けておられます。樹木の伐採についても、一度お寺に話してみようと考えられてのことでした。とはいえ、ゴールドクレストは根が浅く倒木しやすいとも言われています。ほとんど伐採するしかないものと思ってのご相談だったに違いありません。

    ところが、九識霊断法でお伺いをしたところ、この木を伐採するのは望ましくない、娘さんによくない影響があるとの結果がお示しされたではありませんか。ご本佛さまのご教示をそのままにお伝えしたものの、本来ならば早く伐採してしまいたい状況にあることですから、女性の方でもどうしたものかと途方に暮れながら過ごしておられました。

    そのような折に、大型の台風十五号が関東地方を直撃しました。

    女性の住む千葉県の周辺の住宅では、倉庫やカーポートの屋根が飛び、倒木や停電が相次いだそうです。そのような甚大な被害が広がる中において、伐採は望ましくないとお伝えしたあのゴールドクレストの木は、倒れるどころかむしろ風除けとなり、家を守ってくれたというのです。おかげでご自宅には全くといっていいほど被害がなく、難を逃れることができました。もし、あの時、お寺に相談することなく伐採をしていれば、風雨や飛来物がそのまま家屋に直撃し、大きな被害を受けていたところだったでしょう。

    法華経を信じる人は、一乗の仏道をもって苦を離れ、楽を受け、さらに深く妙法を信受することができます。大雲雨そそぐがごとき、ご本佛さまの大慈大悲によって草木がそれぞれの種性にかなって生長することを得、華開き実がなるように、聞法下種を因として現安後善の報果を受くることができるのです。

    天晴れぬれば、地明らかなり。法華を識るものは世法を得べきか。一念三千を知らざる者には、仏大慈悲を起こして、妙法五字の袋のうちにこの珠をつつみ、末代幼稚の頸にかけさしむ。

    観心本尊抄

    倶生神月守を着帯し、唱題受持の妙行をすること、そして、九識霊断法のご教示を頂くことが、ご本佛さまの大慈大悲を素直に授かり受ける末代幼稚にも出来うる成佛の直道です。ご本佛さまに守って頂いたという経験を以て、ますます力強く信仰を継続でき、そして、救われた親の姿を子どもにも見せることで、子々孫々に信心を継承することができるのではないでしょうか。

    日蓮宗全国霊断師会連合会常任理事大阪府霊断師会 会長龍妙寺聖徒団 団長芦田勝康 どんなことでも、お寺に相談して…

  • 第68帰郷への道程その二

    第68帰郷への道程その二

    第68帰郷への道程その二

    大がくと申す人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時、身をすてゝかたうどして候ひし人なり。(中略)城殿と大がく殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御てをこのまるゝ人也

    大学三郎御書(だいがくさぶろうごしょ)

    一度は関東方面へ戻った蓮長(れんちょう)ですが、前回お話ししました通り、再び京へと引き返します。六牙院日潮上人による伝記『本化別頭仏祖統紀』によれば、蓮長はこのころに後の大檀越となる大学三郎(比企能本)と出会ったとされています。

    皆さんは鎌倉時代に起きた「比企氏の乱」をご存じでしょうか。

    能本の父比企能員は、娘婿であった時の将軍源頼家と共謀し、北条氏打倒を企てました。しかしその変は敢えなく失敗に終わり、建仁三(一二〇三)年、北条時政によって討ち取られ、比企一族も滅亡の憂き目にあうのです。

    幸いにしてその子能本は、まだ三歳の幼子であったため危うく難を逃れ、伯父の伯耆法印圓顕に引取られることとなりました。身の危険が及ぶ可能性のある鎌倉を離れ、上京して東寺に身を隠すこととなった能本ですが、これが幸いしてか、都にて大変熱心に学問に打ち込み、能書家として素晴らしい才能を発揮したのです。冒頭のご書は少々解読しづらいかもしれませんが、大聖人は能本に対し「大学殿は坂東第一の能書家である」とお褒めになっておられます。

    また儒者としてその名を知られる存在ともなり、その才覚が順徳天皇の目に留まり、侍者相談役の大役を与えられることとなったのです。

    後に承久三(一二二一)年の承久の乱によって、順徳天皇は佐渡へ配流の身となり、能本もまた上皇に従って共に佐渡へ流罪となってしまいます。しかし嘉禄年中には赦免となって再び鎌倉への帰郷を許されるのみならず、儒官として幕府に任用されました。それは将軍頼家の側室となった能本の姉讃岐の局、あるいは将軍頼経に嫁いだその子竹の御所の力も大きいのですが、やはり能本の儒者としての能力を、高く評価されてのことでしょう。

    大学三郎が大聖人に帰依し、命をかけてお護りする大檀越となるのは、まだ少し先のお話ですので、その折にまたご紹介したいと思いますが、まずはこの頃の蓮長は、学僧として大学三郎より儒学の教示を受けたといわれています。そして何よりこの出会いが縁となり、後に『立正安国論』の著述において、儒者として、また能書家として大学三郎は大聖人の大きな支えとなっていくのです。

    ※この記事は、教誌よろこび平成29年6月号に掲載された記事です。

    大がくと申す人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時、身をすてゝかたうどして候ひし人なり。(中略)城殿と大…

  • 第70話 無量義経の段 その二十八

    第70話 無量義経の段 その二十八

    第70話 無量義経の段 その二十八

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

    1.豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃(仮面の忍者赤影OP)

    無量義経 豊臣秀吉 木下藤吉郎

    信長の館での、ある年の正月。続々と家臣たちが年賀の挨拶に伺うも、信長の表情は険しく、今にも怒りが爆発しそうな雰囲気。

    家臣団に重苦しい空気が漂う中、ようやく信長が重い口を開いて語るには、「昨夜、こんな夢を見た。何処かの戦へと馬に乗って出陣するや、突然馬の足が四本とも折れて、地に投げ出されてしまった・・・。これは如何なる前触れであろうか」とのこと。

    イヤイヤイヤ、これって凶時の前触れ、カサンドラの予言かよって、部下たちはほぼ一同揃って思えども、当然口に出せるはずもなし。

    ますます緊張が高まり、もはや信長の怒りも爆発寸前に至って、忽然と進みでるは、ご存知!後の豊臣秀吉こと木下藤吉郎!

    「やや!信長様おめでとうございます!その夢はこれすなわち、これからの合戦にては、常にかち(徒歩=勝ち)鬨(どき)をあげるとのお報せでございますぞ!」

    たちまち機嫌が治る信長。家臣一同もホッと胸を撫で下ろし、「藤吉郎殿、助かりましたぞ」と、その頓智に感謝したのでした・・・。

    2.あわてない、あわてない、一休み、一休み(一休さん)

    という訳で、お正月に纏わる秀吉の頓智話なわけですが、これが一般庶民間での頓智話、たとえば一休さんの頓智話(まぁホントは、一休さんは後小松帝の御落胤ですけど・・・)でしたら、「一休さん・・・」や、「弥生さん、さよちゃんも・・・」とか、「秀念さん・・・」「い、一休・・・」と名前で呼び合っていても、そう目くじらを立てることもないでしょうが、武家クラスにおいては、「信長さま」や「藤吉郎殿」なんて会話は、まずありえなかったんですね。

    そうなんです。名前って本来、うかつに口に出せないくらい、とてもとても大切なものだったんですね・・・。

    3.あたしのことを苗字で呼ぶな、あたしを苗字で呼ぶのは敵だけだ
    (哀川潤)

    無量義経 織田信長

    今はただ織田信長と言われてますが、昔の人の名前は本来、寿偈無寿偈無ほどじゃないにしろ、やたらめったらに長いもの。

    信長も本来のフルネーム(一応)は「織田三郎平朝臣(たいらのあそん)信長」。

    この場合は織田・三郎・平・朝臣・信長の五つのパーツから成り立つんですが、この内、一番大事なのが実は平と信長の部分。

    信長は本当の名、そして平は姓であり、織田という苗字よりも大事なものになります。

    そう、実はもともと姓(氏)と苗字は違うもの。苗字とは本来、住居や血縁を同じくするグループが自ら名乗った、いわば屋号。

    対して姓とは、同じ血縁地縁グループでも、古代から続く由緒あるものとして、天皇から認められたもの、又は新たに与えられたものなんです。

    つまり本来は、豪族貴族だけのものなんです。中でも、蘇我、物部、藤原、菅原が有名ですね。

    4.さようにむずかしい藤原氏の蔓となり葉となろうよりも、ただ新しく今までになき氏になろうまでじゃ(豊臣秀吉)

    その姓の武士バージョンになったのが平と源。

    だからソガノ馬子、フジワラノ鎌足、スガワラノ道真と読むように、「タイラノ」、「ミナモトノ」と読むわけですね。

    武家の頂点として、(事実かどうかはともかくも)信長は平姓を称したわけですね。

    で、平家あるところに源氏あり。ホントかどうかは別として(当初は平姓だったそうで)、源の姓を名乗ったのが徳川家康こと徳川次郎三郎源朝臣(みなもとのあそん)家康。源が姓であり、徳川は苗字。本当の名前が家康なわけですね。

    信長が平家で家康が源氏。じゃ秀吉はどっち?と、思うところですが、実は秀吉は平家でもなければ源氏でもない。さりとて藤原や菅原、物部等のより古い姓でもない、全く新しい姓を名乗ってるんですね。

    そうです。それこそが「豊臣」。ホントのところ秀吉は、トヨトミ秀吉じゃなくて、トヨトミノ秀吉と言うべきなんですね。

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一) 1.豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃(仮面の忍者赤…

  • 第67話 帰郷への道程

    第67話 帰郷への道程

    第67話 帰郷への道程

    建長三年十一月廿四日戍時了。五帖之坊門富小路。坊門ヨリハ南。富小路ヨリハ西

    五輪九字明秘密義釈奥書(ごりんくじみょうひみつぎしゃくおくがき)

     伊勢神宮を拝し誓願を立てた蓮長(れんちょう)は、いよいよ清澄寺旭が森にて…といきたいところですが、建長五年の立教開宗までにはまだ数年の年月があるのです。

     おそらく今まで皆さんがよく目にしてきた日蓮大聖人の御一代記では、比叡山修学の締め括りとして伊勢神宮に詣でた後、故郷房州に戻って清澄山にて昇る朝日に向かい…、というのが一般的でしょうか。しかし実は蓮長の行動は、そうすんなりとはまいりません。その間の確かな動向を知ることは大変難しいのですが、いくつかの祖伝や諸説を拝すると、色々な足取りも見えてきます。

     伊勢を離れた蓮長は、叡山での修学を完全に終えたわけではありませんが、一度関東方面へ戻っている節も見受けられます(場合によっては、故郷の小湊に戻り両親や兄弟子たちと会ったとの話も)。

     翌年の春には、旧知であった尊海僧正を訪ねるために、武州河越に向かったとされています。一節には尊海僧正はかつて蓮長が鎌倉遊学中に知り合った高僧で、その勧めによって比叡山での修学を決意したともいわれています。またこの河越の中院にて、蓮長は尊海僧正より阿闍梨位となる伝法灌頂を授かったともされるのです。

     河越での滞在中には、投宿した宿屋の夫妻が蓮長に深く帰依します。蓮長はこの両名に対し、夫に蓮信、妻に妙養の法号を授けたと伝えられています。

     その年の暮れに再び京都に戻った蓮長は、新義真言宗の祖である覚鑁の密教注釈書、『五輪九字明秘密釈』を書写したといわれています。この『五輪九字明秘密釈』は、同書の最古の写本といわれています。冒頭の書はこの書を書写した場所を記した奥書ですが、そこには「日蓮」あるいは「蓮長」の名はなく、残念ながら実際に蓮長が書写したものであるかの確証はありません。しかしその表紙には後に送られたと思われる「常忍(富木常忍)」の名が記され、他の御書と共に法華経寺蔵書となっていることを考えると、重要な書物として伝えられたことも考えられます。

     もしこの写本が実際に蓮長の筆によるものだとすれば、蓮長は真言宗の秘伝書ともいえる『五輪九字明秘密釈』を写本することが許される立場であったと推測されます。実は蓮長は台密(天台密教)のみならず、東密(真言密教)での秘伝奥義の血脈相承を受けていたとの説もありますが、前記の書写のくだりと併せて考えると、がぜんその説に真実味が出てきます。そこには机上の学問のみに留まらず、実践を重んじその奥義までも追求していく、蓮長の修学に対する大変な奥の深さが伺えるのです。

    イラスト 小川けんいち

    ※この記事は、教誌よろこび平成29年5月号に掲載された記事です。

    建長三年十一月廿四日戍時了。五帖之坊門富小路。坊門ヨリハ南。富小路ヨリハ西 五輪九字明秘密義釈奥書(ごりんくじ…

  • 第69話 無量義経の段 その二十七

    第69話 無量義経の段 その二十七

    第69話 無量義経の段 その二十七

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

    1.虎は死して皮を残し、人は死して名を残す
    (欧陽脩)

    そうは言っても、後世に残った名が、本人自ら名乗っていた名前ではなく、死後に贈られた名前の場合が多いというのも、意外なる歴史の真実。

    そう言えば、あのイエス・キリストでさえ、その当時の名と言えば「ナザレのイエス」。ご存知の通り、ナザレのイエスと言えば、一世紀の中東、ガラリアの地(今のパレスチナ)において、病気治しの奇跡で多くの信者を集め、ユダヤ教内における新興宗教的な勢力を作り上げた人物。

    それゆえにイエスは既存の権力と対立し、十字架に架けられて処刑された(俗に十三日の金曜日だったと言います)わけですが、その処刑の日から三日後、復活したイエスを目撃する弟子たちが続出します(この復活の日を祝うのがイースターです)。

    このイエスの復活という神秘体験を感得した弟子たちは、導師イエス(ジーサス)こそは、実は救世主(メシア=クライストすなわちキリスト)だったと主張し始めます。これこそが世界最大の宗教となるキリスト教の起こり。

    佛教は佛陀が唱えた宗教ですが、キリスト教は、厳密にはイエス・キリストが唱えた宗教ではなく、「ナザレのイエスはキリストだった」と信じた人々が起こした宗教なわけですね。

    ですから、イエス・キリストと言うのは、本来は「イエスは救世主である」、あるいは「イエスは救世主だと信じる」という意味。

    妙法蓮華経に身も心も捧げますの「南無妙法蓮華経」や阿弥陀佛に身も心も捧げますの「南無阿弥陀佛」と同様、信仰者の信心を現わす言葉なのです。

    本来は、キリスト教信者内でこそ通用すべき言葉のはずですが、今やキリスト教以外の人々にも広く伝わり、名前そのものになってしまっていることは、皆さんもご存知の通り。

    何しろ、もしも、もしも万が一にも、イエスがホントのほんまにキリストだったとしたら、キリスト教の教えを信仰せず、ハルマゲドンの後に永遠の地獄の業火に焼かれ続けることになるはずの私たち佛教の徒ですら、「イエス・キリスト」と平気で呼んじゃているのは、おかしな話なんですね。

    2.だが人よ 名を問うなかれ
    (サスケOP)

    東照大権現と言えば、「日光を見ずして結構と言うなかれ」でお馴染みの、日光東照宮に祀られる徳川家康の神号。

    これも家康亡き後の贈り名になるわけですが、現代においては、その当時の名、徳川家康を以て広く皆に知られるところでしょう。

    豊国大明神の名を持つ豊臣秀吉も、総見院殿贈大相国一品泰巌大居士(あるいは天徳院殿龍厳雲公大居士、または天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門)たる織田信長も、今となっては、死後ではなく生きていた時の名前で有名だと言えるでしょう。

    ただし、当時その名が使われることは、まず滅多にはないことでした。

    殊に彼らの家臣が、「信長様」や「秀吉様」と話しかけるなんて、死を覚悟でもしないかぎり、絶対にありえないことだったのです・・・。

    そうです、死後の名前ではなく、ちゃんと存命中の名前で歴史に名を残した方々の場合、むしろ当時はその名前で人から呼ばれることが、まずあり得なかったという、いわば逆のパターンも、結構あるわけです・・・。

    大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一) 1.虎は死して皮を残し、人は死して名を残す(欧陽脩…

  • 第57回 祈りは叶う

    第57回 祈りは叶う

    第57回 祈りは叶う

    大分県由布市
    蓮正寺聖徒団 団長
    飯盛義教

    平成三十一年三月に、お笑いタレントのゴルゴ松本さんの講演を聞く機会がありました。「人生」をテーマに漢字の「成り立ち」を説明しながら、日本語に秘められたメッセージを読み解き、面白く為になる講演でした。

    「皆さん、夢はありますか?夢は叶うのですよ。夢が叶う人と叶わない人の違いは、愚痴とか弱音を吐くか吐かないかだけです。吐くという字の「土」の下の一を少しずつ消すと「叶」という字になるでしょう。

    さて「辛」に一つ足すとは何でしょうか。「真の幸福」を望むならお題目だと思いませんか。

    苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思合て、南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ。

    四條金吾殿御返事

    今から十年程前のことです。Aさん(お母さん)が子供(B君当時五歳)のことで相談に来られました。B君はとにかく元気で動き回る子です。ところがある日、知り合いから「B君、周りに比べて落ち着きが無いね。一回病院で診てもらった方が良いと思うよ」と言われました。その言葉が気にかかり、しばらく悩みましたが、思い切って病院で診察してもらうことにしました。結果、医師から「多動性障害」だと診断され、お母さんは「まさか自分の子供が・・これからどう育てていけばいいのか」など色々な事が脳裏をよぎり、悩めば悩むほど涙が出てきました。悩んだ末にお寺に相談にこられたのです。

    そこで九識霊断法をとると、未来に僅かな希望の光が見えました。お母さんに「毎月一回、B君を連れて私と一緒にお題目を唱えませんか」と伝えると「はい、宜しくお願いします」と返事が返ってきました。最初は一分も座っておれず、すぐに動き回りましたが、回を重ねるうちに、僅かな時間ですが座れるようになってきました。

    しかし小学校入学の時に、学校から特別支援学級に入るよう進められました。お母さんは受け入れられず、お寺に相談に来られました。そこで九識霊断法でみると、「特別支援学級に入りなさい」とのご教示でした。お母さんは悩みに悩みましたが、仏様の言葉を信じ受け入れ、特別支援学級に入れることを決めました。また「障害を乗り越えるためにも何か運動を勧めてみてはどうですか」と伝えると、親子で話し合ってサッカーを始めることになりました。

    その後、親子で努力し、又サッカーで協調性を学び、お題目を家族で唱え祈り続けました。その甲斐あって小学校四年生に上がるときには、普通学級に入るまで成長しました。お母さんはとてもよろこび、涙を流して報告しに来てくれました。それからも毎月一回お寺に来られ、今では親子で三十分以上座ってうちわ太鼓を叩きながら大声でお題目を唱えてくれています。

    B君の将来の夢はプロサッカー選手。今年の四月から自分が選んだ県外の高校に入学し、サッカー部に入りました。未来に向けて羽ばたこうとしています。祈りは叶うもの。弱音や愚痴を吐かずお題目を唱え前向きな気持ちで行動すれば、必ず仏さまは応援してくださいます。これからも共にお題目を唱え、倶生神月守を着帯し、幸せを目指してまいりましょう。

    南無妙法蓮華経

    大分県由布市蓮正寺聖徒団 団長飯盛義教 平成三十一年三月に、お笑いタレントのゴルゴ松本さんの講演を聞く機会があ…

  • 第66話 誓願

    第66話 誓願

    第66話 誓願

    此御影を内侍と云鏡を作て移し奉る也。其御影を内裏の御宝と定め給也。かくて太郎の神を出し奉て兄弟の中を和げ、天照太神をば日本国の神の惣政所と名付給ふ。今の伊勢太神宮是也。(中略)伊勢太神宮の御末に神武天皇御坐也。此の御門は人王と顕れ始め給也。此故に神々は百王百代の末まで守らんと誓給

    神祇門(じんぎもん)

     蓮(れん)長(ちょう)が故郷を離れて比叡山に入山してより、早十二年の歳月が流れました。既に己が学ぶべきものを学び尽くし、なすべき使命をその胸にはっきりと定めた蓮長は、帰郷の時が近いことを悟りました。そして最後の締め括りとすべく、その足は伊勢大廟へと向かうのです。

     蓮長は伊勢にある天台宗寺院、間山浄明寺に参籠したとされます。そして境内にある井戸にて日々身を清めながら、伊勢神宮への日参を行いました。この水垢離の中、後に語られる日蓮大聖人の大誓願(この誓願については、また改めてお話します)を発意されたといわれています。そしてその誓いを胸に、伊勢神宮を拝するのです。

     学僧が様々な教えを学ぶために諸寺を巡ることは理解できますが、神道の本拠地ともいえる伊勢神宮に赴くのは、些か不自然に思うかもしれません。もちろん大聖人は佛法のみならず、神道や儒学などに関しても生半可な専門家以上の知識を備えていました。しかしこの度の伊勢参宮は、何かを学ぼうとする意図でないことは、皆さんすでにお気付きのことでしょう。

     大聖人は故郷である安房国を「天照大神の御厨也」と仰せになり、ご自身がその聖地に縁をもつことを大変に誇られています。その天照皇大神の鎮座まします日本第一の大社が、いわずと知れた伊勢神宮なのです。

     天照大神は地神五代の神々の頂点に立つのみならず、始馭天下之天皇すなわち神武天皇より始まる人王の祖となる皇祖神です。いわば皇族の氏神であり先祖ともいえる天照大神に詣でることが、修学を終え新しい第一歩を踏み出そうとする蓮長にとって、ことさら意味深きことであったのかもしれません。

     大聖人の謎多きご出生、そしてこの度の経費度外視ともいえる充実した遊学を含め、後々の行動の不思議さを思えば、その出自が片海の漁師の子であったとは到底考えられません。今まさに心の内に秘めた大いなる決意を打ち明け、そして不退転の誓いをなすには、日本国の総氏神、そして“自身の先祖”である天照大神の御前以外にない、との思いでこの地を訪れたのではと推測するのは、はたして私の考え過ぎでしょうか。

     余談となりますが、実は伊勢神宮はその格式の高さ故、近代までは僧形の者の立ち入りを禁止されていました。江戸時代になってようやく境内に僧尼拝所が設けられましたが、それでも宇治橋を渡ることは許されず、遠く正宮の川向こうより拝するのみです。

     しかし『仏祖統記』によれば、参詣満願の日に「皇大神の宝殿で獅子座に座したもう御影を拝した」と記されるように、名も無き修行僧であるはずの蓮長が、不思議と正宮まで近付くことを許されているのです。それが何を意味することなのかは、皆さんのご想像にお任せ致しましょう。

    イラスト 小川けんいち

    ※この記事は、教誌よろこび平成29年4月号に掲載された記事です。

    此御影を内侍と云鏡を作て移し奉る也。其御影を内裏の御宝と定め給也。かくて太郎の神を出し奉て兄弟の中を和げ、天照…

  • 第56回 人生 苦と楽に学ぶ

    第56回 人生 苦と楽に学ぶ

    第56回 人生 苦と楽に学ぶ

    島根県出雲市
    法恩寺聖徒団 元団長
    橘 亮秀

    テレビの長寿番組に、時代劇「水戸黄門」があります。四十二年間高視聴率で放映され平成二十四年にシリーズは修了したものの、現在新シリーズがスタートしています。人気の秘密は「勧善懲悪」といって、悪人をこらしめ世直しをする正義の味方であり、番組の終わりに「この紋所が目に入らぬか!」掲げられた印龍とこの決め台詞で私たちは留飲を下げるのでしょう。

    番組もさることながら、主題歌「ああ人生に涙あり」もいい歌詞だねと共感するひとが多いようです。一番と四番を紹介します。

    <一番>
    人生楽ありや 苦もあるさ
    涙の後には 虹も出る
    歩いてゆくんだ しっかりと
    自分の道を ふみしめて

    <四番>
    人生涙と 笑顔あり
    そんなに悪くは ないもんだ
    なんにもしないで 生きるより
    何かを求めて 生きようよ

    如何でしょう。主題歌の名前は知らなくても、おもわず口ずさむ人生の応援歌だと言った人がいました。

    二千年以上前に書かれた中国の書物に、「人間万事塞翁が馬」ということわざがあります。

    「昔、中国の北辺の老人(塞翁)の飼っていた馬が逃げたが、後に立派な馬を連れて帰ってきた。老人の子がその馬から落ちて脚を折ったが、そのために戦争に行かずに済んだ」
    【訳】世の中に起こる悪い(苦)ことも、良い(楽)ことも予期できず、それに振り回されてはならない。

    私たちが、生きてる中でいろいろな人生訓、格言に出会いますが、それぞれの人生のタイミングによって受け取る印象や、その言葉の重みが変わります。この言葉を座右の銘にしている人も多いのですが、最近わたしもその一人になりました。

    又、同じ意味合いですが「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」・・・交差する縄の表裏を例えて、苦と楽は表裏一体となってやってくるものだという意味ですが、苦と楽は相対関係にあることを端的に表しています。

    日蓮大聖人「四条金吾殿ご返事」

    苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや

    【訳】苦を苦とさとり、楽を楽と心を開きなさい。苦しみにつけ楽しみにつけ、苦楽共に思い合せて南無妙法蓮華経としっかりと唱えなさい。これこそ法華経を信じる喜びを、自分自身で受け取る事なのです。

    苦とは一体何でしょうか?苦とは、自分の願いに反することが起こることをいいます。仏教では、人生の苦しみを大きく四つに分けたもの(生老病死)を四苦といい、更に四つを加えたもの(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)の八苦をいいます。天下を統一したあの徳川家康でさえ、人生の苦しみを「人の一生は重荷を背負って遠き道を行くがごとし」と言っています。若くありたいのに歳を取る、健康でいたいのに病気になる、生きたいのに死ななければならない、愛されたいのに愛されない、欲しいのに手に入らない、嫌われたくないのに嫌われる・・・これが苦の正体です。

    この問は光と闇、生と死、善と悪、苦と楽というように、その性質を異にするものが一対となって成立する二元相対の世界です。一方のみを取って一方は捨てる訳にはいかないのです。ですから苦を排除した楽はありません。この世で得られる幸福は苦の共存する楽のみです。

    今一度思い出してください、私たちは魂と心と肉体の三者によって作られています。成長する過程で魂の存在は忘れられ、自分を心と肉体の存在であると思い込んでいます。苦の原因をつきつめればこの事にあります。苦難は私達に与えられた魂の成長だと考えてみたら如何でしょうか。

    戦国時代、郷上(安来)の武将、山中鹿助(鹿介)は尼子家再興のために「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名です。これも命をかけ魂に語りかけたのでしょう。私たちの人生には色々なことがありますが、苦難にも決して逃げないで、お題目に絶対の信を持って唱えるとき、肉体的物質的満足を求める人生から、魂の求める人生に変容したことを実感できた時こそ、法華経信仰の有難さが身にしみるのです。

    島根県出雲市法恩寺聖徒団 元団長橘 亮秀 テレビの長寿番組に、時代劇「水戸黄門」があります。四十二年間高視聴率…