日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#082

名越の御草庵
(その二)

名越切通ハ三浦ヘ行道也。此峠、鎌倉ト三浦トノ境也。甚嶮峻ニシテ道狭。左右ヨリ覆ヒタル岸二所アリ。里俗、大空小空ト云フ。峠ヨリ東ヲ久野谷村ト云、三浦ノ内也。西ハ名越、鎌倉ノ内ナリ

新編鎌倉志(しんぺんかまくらし)

これは江戸時代に水戸光圀公によって編纂された『新編鎌倉志』という地誌に見られる記述です。ご存じ「助さん、格さん」との世直し道中とまではいきませんが、光圀公は実際にご自身の見聞を元としてこの書を編纂されたと言われていますので、かなりの正確な記録といえます。

これに拠ると、名越は鎌倉と三浦を結ぶ街道の重要な分岐点であったことがうかがえます。そして「名越」の地名は古く『吾妻鏡』にも見られますので、大聖人ご在世には既に鎌倉方にとっての要所であったのです。それを裏付けるかのように、半島南部よりこの名越切通に至る道中には、鎌倉五名水の一つである「日蓮乞水」と呼ばれる井戸があります。説に拠れば、房州より鎌倉へ向かう大聖人が、道すがら喉の渇きを癒やそうと持っていた杖で地面を突くと、不思議なことにそこから清水が湧き出たと伝えられています。おそらく大聖人もこの街道を抜け、鎌倉を目指されたのでしょう。

名越の御草庵

また名越は街道の要所のみならず、軍事的に重要な地でもありました。当時は源氏によって鎌倉に幕府が開かれたとはいえ、半島を所領とする三浦一族の勢力は無視出来るものではありません。ことに幕府の実権が将軍家より執権の手に移ると、北条氏にとって三浦氏は最大の対抗勢力となりました。そこで名越の切通付近に北条一門の館を構え、三浦勢から鎌倉を守るための防壁としたのです。

名越の御草庵

それ故に「名越」の名は、北条氏の一流を示す名ともなりました。源頼朝の正室で知られる北条政子の父北条時政は、この地を所領とし館を構えていました。後にその館を継いだ孫の北条朝時は、所領地より名越の名を称して名越流北条氏の祖となったのです。実はこの朝時の母は、後に大聖人と深い関わりを持つ比企氏より嫁いだ姫でした。そして同じく後に大檀越としてその名を知られる四条左衛門尉頼基(金吾)もまた、父の代よりこの名越北条氏に使える家臣であったのです。

大聖人がこの名越の地に庵を結ばれ布教の拠点と定められた理由は、鎌倉を往来する人々の要所と見定められたのはもちろんですが、法華経に深く縁を結んでゆく人々の後ろ盾があったからこそと推測されます。したためられたお手紙等には、当地のご草庵を「小庵」と記されています。しかし人馬が骸となって道々にその身を晒しているような世情の中で、僅かな人々が集い教えを聞くほどの庵を建立することですら、決して容易ではないことが想像できましょう。おそらく新天地鎌倉にてお題目を弘めゆくための準備は、既に大聖人との縁を持つ様々な人の力によって、着々と進められていったのではないでしょうか。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成30年9月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

pagetop

TOP