日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#059

諸国への遊学
その十二

西域等の書ども開見候へば、五天竺の諸国寺寺の本尊皆しるし尽くして渡す。また漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候ふ寺寺の御本尊、皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺、四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、その寺寺の御本尊またかくれなし

新尼御前御返事

真言密教の霊場金剛峯寺での研鑽を終え高野山を後にした蓮長(れんちょう)ですが、前回もお話しした通りすぐに比叡山へ帰山することなく、しばらく近隣諸国を遊学したとされています。

日蓮大聖人-蓮長

比叡山のある近江国(現在の滋賀県)と高野山のある紀伊国(現在の和歌山県)は、今ならば公共交通や車を利用すればわけもなく移動可能な距離ですが、何分にも当時はすべて徒歩での移動になります。と聞けば、弥次喜多道中のような宿場を継いでの穏やかな旅を想像されるかもしれませんが、それはずっと時代を下った江戸時代のお話です。鎌倉期ではまだまだ街道もそれ程整備されているとはいえず、場合によっては険しい山越えもしなければなりません。

そう考えると、せっかく高野山まで足を運んだのです、途中には貴族や寺社など多数の荘園で栄える和泉国(現在の大阪)もありますので、近隣を巡りながら近江まで戻ろうと考えるのは、当然の選択といえましょう。

冒頭のご文章を拝見すると、大聖人は経典のみならず、先師たちの論書、さらには国内外の史記や日記に至るまで、具(つぶさ)に目を通していたことが伺えます。比叡山や高野山といった大寺院といえども、これらすべての書物を所蔵していたとは考えられません。おそらくはこうした“寄り道”の際に、主要な寺院あるいは人物を訪ねて、これらの貴重な書物を閲覧したと思われます。

とはいっても、そこは先立つものの心配が無ければのお話。高野山までの旅路も大変であるのに、さらに寄り道をするとなれば、かなりの路銀(ろぎん)が必要であったと思われます。

諸国への遊学

まずは故郷の領家の尼よりの援助が考えられますが、それだけで賄うのは難しいかもしれません。鎌倉に幕府が開かれたといっても、まだまだ関東は未開の地です。ましてや房総半島の突端に住む田舎領主の後家尼ですし、当時は幕府より派遣された地頭職の東条景信にかなり虐げられていた状況です。蓮長の思うが儘に遊学をさせるだけの援助を行うには、領家の尼一人の財力では些か厳しいものがあったのではないでしょうか。

そうなりますと、その他にも蓮長に援助を行っていた者たちの存在が浮かび上がってきます。残念ながらそれが誰であるのかは、大聖人が書き残されたご文章からではわかりません。あるいは後に大檀越となったとされる方々が、“何らかの理由があって”既に蓮長が幼き頃より見守っていたとの驚きの説もあります。ですがそれは謎のまま、ということにしておきましょう。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成28年8月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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