日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#055

諸国への遊学
その八

高野山に本寺、伝法院といいし二の寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔大日如来なり。伝法院と申すは正覚房が立てし金剛界の大日なり。此本末の二寺昼夜に合戦あり。例せば叡山、園城のごとし。誑惑のつもりて日本に二の禍の出現せるか

報恩鈔(ほうおんしょう)
諸国への遊学

南都の諸山を巡った蓮長(れんちょう)は、いよいよ最終目的地である紀州の高野山を目指します。伝記によれば、南都を離れたのは宝治二(一二四八)年の暮、御年二十七歳の頃であったとされます。

高野山は、言わずと知れた日本真言密教の開祖、弘法大師空海によって開かれた、真言宗総本山金剛峯寺を有する密教の聖地です。

弘法大師は信任の篤かった嵯峨天皇から一万町歩もの寺領を賜ったとされ、その最盛期には七千七百の坊がひしめき合っていたと言われています。また鳥羽天皇の皇后であった美福門院が、亡き天皇の菩提を弔う為に六角経蔵を建立し、紺紙金泥の一切経を奉納するなど朝廷との繋がりは大変深く、大きな権勢を誇っていました。

弘法大師の没後は、その高弟であった真済、真雅、実慧などが師の志を継いで高野山を発展させましたが、やがて東寺、高野山、神護寺がそれぞれに独立をし、更には仁海の大成させた小野流や、?朝の広沢流などの二派が生じ、それが野沢根本十二流と呼ばれるほどの多くの流派に分派してゆきます。「真言宗」と聞くと単純に一宗派のように思われますが、実は多くの門流の集合体であるのです。

高野山々内も、良禅の金剛峯寺(本地)方と、覚鑁の伝法院(院)方に分かれ、高野山を追い出された覚鑁の一派は、根来に大伝法院を移すなど、両派は激しい争いを繰り返していました。それはまるで「比叡山の山門派、寺門派の争いのようである」と、蓮長は当時の様子を皮肉っています。

諸国への遊学

高野山に辿り着いた蓮長は、金剛峯寺の手前にある高野十谷(こうやじゅったに)の内の一つ、一心院谷(いっしんいんだに)に入ったとされています。この一心院谷には、五坊寂静院(ごぼうじゃくじょういん)がありました。この五坊とは、「妙法蓮華経」の五字に因んで「妙智坊」「法智坊」「蓮智坊」「華智坊」「経智坊」の五つの宿坊が存在し、後に一心院、また蓮長遊学の頃には五坊寂静院と改称されていきました。遊学の最終仕上げを志す地として、蓮長にとってこれ程相応しい場所はないでしょう。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成28年4月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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