日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#052

諸国への遊学
その五

良観、道隆、悲願聖人等が極楽寺、建長寺、寿福寺、普門寺等を立てて、叡山の円頓大戒を蔑如するがごとし。これは第一には破僧罪也

破良観等御書(はりょうかんとうごしょ)
諸国への遊学

三井寺にて天台教義はもちろんのこと、台密、東密の両奥義にまで通ずる膨大な蔵書を閲覧した蓮長(れんちょう)は、続いて京都泉涌の来迎院に赴いたとされています。

この辺にまでなりますと、もはや確たる資料には乏しく、確かな足取りやその目的などはわかりません。蓮長が来迎院を訪れた当時は、宋より来朝した蘭渓(らんけい)道隆(どうりゅう)禅師が滞在していた時期と重なります。道隆は日本に臨済禅を弘めた高名な禅師で、北条氏の請いに応じて鎌倉建長寺の開山ともなった高僧です。おそらく蓮長も、来迎院にて道隆の講義を聴聞したことでしょう。

冒頭の御文書に見られるように、後に大聖人の記された様々な御書には、極楽寺良観(ごくらくじりょうかん)と並んでこの道隆の名が随所に見受けられます。そこでは禅僧の代表格として、伝教大師の伝法より法華経を正意としてきた日本の正法を、誤った教義をもって歪めてしまった悪僧として上げられているのです。大聖人は決して憶測で物事を非難するようなお方ではありませんので、来迎院にて道隆の講義をかなり深く学ばれたことが推測されるのです。

諸国への遊学

道隆の招来こそありましたが、そもそも来迎院は弘法大師に所縁の深い真言宗の由緒ある寺院です。寺伝によれば、来迎院は大同元(八〇六)年、弘法大師入唐の折に感得した三宝荒神を奉安し開創したとされています。それから約四〇〇年の後、健保六(一二一八)年に泉涌寺の長老であった月翁智鏡が、藤原氏の篤い帰依を受けて伽藍を整備し、泉涌寺の子院と定めました。蘭渓道隆も入宋していた月翁智鏡との出会いによって、来朝の決意をしたと言われています。

親寺となる泉涌寺も、真言宗泉涌寺派の総本山として知られ、鎌倉時代の後堀河天皇や四条天皇、また江戸時代の後水尾天皇より幕末に至るまでの歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御(み)寺(てら)泉涌寺」と呼ばれるほどの権勢を誇った真言宗の大寺院でした。 叡山教義と同様に四宗兼学を掲げてはいましたが、弘法大師を開山と仰ぐその流れにより、東密(真言密教)に関する膨大な教書が格護されていたとも言われています。蓮長はこの来迎院にて、道隆り臨済禅の教義を学ぶと共に、唐や宋より招来された真言密教の奥義に触れる書物の閲覧に至ったことでしょう。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成28年1月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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