日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#050

諸国への遊学
その三

同じき御宇に円珍和尚と申す人御入唐。漢土にして法華・真言の両宗をならう。(中略)この人は、本朝にしては叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・別当光定・第三の座主円仁等に、法華・真言の両宗をならいきわめ給ふのみならず、また東寺の真言をも習ひ給へり。その後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみがき給ふ。今の三井寺の法華・真言の元祖智証大師これなり

神国王御書しんこくおうごしょ
諸国への遊学

寛元四(一二四六)年二十四歳の折、蓮長れんちょうは諸国遊学の第一歩として、まずは叡山からほど近い大津の三井寺を訪れたとされています。

三井寺の正式な寺号は園城寺ですが、天智、天武、持統天皇が産湯に用いられた井戸があることから、「御井(みい)の寺」と呼ばれるようになり、後には三井寺として親しまれるようになりました。そもそもは弘文元(六七二)年に大友氏の氏神として建立されたものですが、後に第五代天台座主であった智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)によって復興がなされ、貞観八(八六六)年には延暦寺の別院となりました。

以前にも触れましたが、比叡山内では慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)、智証大師円珍それぞれの流れを汲む門弟どうしが互いに対立し始め、やがては円仁を仰ぐ「山門派」と円珍を仰ぐ「寺門派」に分裂をします。そして山を下りた「寺門派」にとって、三井寺は総本山ともいえる寺となるのです。

もともと伝教大師由来の日本天台宗では、「四宗兼学」といって法華経を中心としながらも、禅や戒そして密教も取り入れていました。それがいわゆる「台密」と呼ばれるものです。伝教大師は総合的な教義の完成を目指していたのです。しかし“密教”といえば“弘法大師”と言われるくらい、真言密教いわゆる「東密」の方が一歩も二歩も抜きん出ていました。伝教大師の悲願であった台密の大成は、後にその意志を受け継いだ円仁、円珍両師の力によるものと言えます。しかしこの密教教義の解釈の違いによって、次第に両者を師と仰ぐ門弟たちの争いとなっていくのです。

諸国への遊学

円珍の流れを汲む寺門派では、四宗教義に加え修験道も重要視する「五法門」を確立させました。実は蓮長の出身である清澄山も、慈覚大師の再興によって天台宗となる以前は、不思議法師開山による山岳信仰、修験道の霊場でした。

その点では、蓮長も寺門派のもつ修験道的な性格には大変興味があったやもしれません。もちろん三井寺を訪れたのは、それだけの物見遊山な理由ではありません。その辺りはまた次号で。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成27年11月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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