『天台法華宗年分学生式(中略)およそ法華宗天台の年分は弘仁九年より叡山に住せしめて、一十二年山門を出さず両業を修学せしめん。およそ止観業の者、およそ遮那業の者』等云云
法門可被申様之事
例によって大聖人ご自身の回想の中に、蓮長(れんちょう)の遊学時期について触れられた記載は、ほとんど見られません。ですから蓮長が叡山を離れ諸国を巡った時期については、諸説あるものの、やはりその時期や次第などの詳細は残念ながら明確にはされていません。
一つの手がかりとして、伝教大師が山内の修行僧の為に定めたとされる『山家学生式(さんげがくしょうしき)』があります。それによると、籠山十二年を基本的な修行期間とし、その内前半六年を「聞慧(もんえ)」、後半六年を「思慧修慧(しえしゅうえ)」といったように、佛教研鑽の基本にしたがった籠山軌範が定められています。「聞慧」は文字通り聞法の行となりますので、まずは叡山にて師に就いて基本的な学問を徹底的に学びます。その上で、学んだ知識を基により深い考察を行っていく「思慧」、更に実践に移していく「修慧」へと進むのです。
蓮長も比叡山の学僧ですので、当然ながらこの軌範にある程度従って山内での修学を行ったことは予想されます(なぜ“ある程度”なのかは、後ほど)。冒頭の御書を拝見しても、少なくともこの学生式については、よく理解をしていたことが覗えます。
現に蓮長が比叡山に入山した仁治二年は、二十一歳の時ですので、修学の大きな節目となる建長五年、大聖人御年三十二歳の立教開宗までの期間は、十一年間となります。
「あらっ?」と思われた方、正解です。籠山十二年には若干年数が足りませんし、立教開宗時には既に叡山を離れ、清澄への帰郷をしていますので、厳密に言えば「籠山」とは言えないかもしれません。その辺が“ある程度”と申し上げた所以(後にもっとややこしい“ある程度”が出てきます)なのですが・・・。
伝教大師の定められた比叡山で修得すべき三慧の集大成は、学んだ知識を実践に移すべき「修慧」です。蓮長の目的は「本より学文し候し事は、恩ある人をも助けんと思ふ」ですので、清澄寺旭が森にて一切衆生を救うべく大いなる決意をもって行った、お題目始唱こそが、蓮長にとってこの修学の最終仕上げ、「修慧」となるのです。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生