此等の宗々枝葉をばこまかに習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思し故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至まで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習回り候し程に
妙法比丘尼御返事
いよいよ比叡山を出て諸国遊学に赴いた蓮長(れんちょう)ですが、その足取りはいかなるものだったのでしょうか。しばしその行程を考察してみましょう。
この御書に見られるように、以前に留学をしていた鎌倉と、また当時在籍していた叡山の名を除けば、京、園城寺、高野、天王寺の地名が出てきます。これ以外にも『破良観等御書(はりょうかんとうごしょ)』に「叡山・園城・高野・京中・田舎等処々に修行して自他宗の法門をならひしかども」とやはあり同じ地名が出てきますので、これらの場所を訪ね歩いたことは間違いありません。
園城寺については以前に少し触れましたが、叡山を離れた「寺門派」が本山と定めた天台のお寺で、現在の滋賀県は大津にあります。?野は言わずと知れた高野山金剛峯寺のことですので、現在の和歌山県となります。また天王寺は現在の大阪府で、地名にもなっているお寺ですので、こちらもご存じの方は多いと思います。
それらを整理すると、蓮長は京都、滋賀、大阪、和歌山を巡ったこととなり、その範囲はおよそ近畿地方に収まっています。
この行動範囲について考えると、まずわざわざ叡山まで出て、遊学期間中に東国方面に戻ることは考えられません。当時は鎌倉こそ武家政治の中心として開かれてはいますが、畿内までの中間はまだまだ文化的とは言えず、地方武士や豪族たちの闊歩する山野でしかありません。同じく京都・大阪以西も、特に学ぶべき魅力のある地があったとは言えないでしょう。
また旅の目的が学問の研鑽ともなれば、当然ながら赴いた先である程度の日数をかけて滞在する必要があります。限りある期間の中で、重要な教義を修得しなければならない条件を考えれば、畿内を中心にそれ程遠方までは出られなかったと考えるのが自然でしょう。
そう思えば、やはりこの範囲を巡っていたことも、間違いはないようです。
では蓮長はそれらの地をいかにして巡り、そして何を学んでいったのでしょうか。
蓮長の遊学方法は、以前から様々な説が提唱されて来ました。しかし残念ながら、大聖人はその過程について詳細を述べられてはいませんので、いずれも推測の域を出ません。またまた資料に乏しい中でのお話ではありますが、著名な伝記のいくつかを紐解きながら、次回より遊学の旅路をご紹介しましょう。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生