日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#041

比叡山での修学
その3

慈覚と智証との門家等、闘諍ひまなく、弘法と聖覚が末寺と本寺と伝法院、叡山と園城との相論は修羅と猿と犬とのごとし

破良観等御書(はりょうかんとうごしょ)
比叡山での修学

前回までのお話で、比叡山の成り立ちについては粗々ご理解いただけたかと思います。では蓮長(れんちょう)が入山した仁治年間(一二四〇年頃)の叡山は、どのような環境であったのでしょう。

数千人もの学徒を抱え、日の本随一の学問所との名声を誇る比叡山ではありましたが、その内情は大変荒んだものでした。冒頭にご紹介している大聖人の『破良観等御書』に見られるように、山内では派閥争いが絶えず、また法論の名の下に、他寺や他宗派との争いも頻繁に繰り返されていたのです。

当初は口頭による法論であっても、争いが激しくなれば、やがてそれは武力を用いた闘争に発展していきます。先師によって見事なまでに整えられた山内伽藍も、蓮長入山の頃には焼き討ちによってことごとく破壊され、根本中堂(こんぽんちゅうどう)だけがかろうじてその姿を留めていたと言います。

山内の重要な事項は、以前にもお話しした通り、東塔、西塔、横川の三塔合議によって決められていました。一見民主的で良制と思われるこの制度は、本来ならば最高権威を持つはずの「天台座主(てんだいざす)」の立場を弱体化させてしまう要因となるのです。どこぞの国政ではありませんが、やはり強いリーダーの不在によって外野が好き勝手なことを言い出せば、物事は上手く回らなくなるのが世の常でしょうか。三塔合議とは名ばかりで、皆それぞれの主張を争うばかりで、己の権威を高めることに躍起になっているのです。

日本最高の聖峯にて佛の法を学び、国や大衆を導かんとする筈の僧侶がこの有様です。まさに佛説のごとく世は末法の様相、釈尊の伝えんとした至高の教えが滅び行く様を、蓮長は比叡山で目の当たりにしたことでしょう。

比叡山での修学

その勢力争いの中心となっていたのは、比叡山第三代座主円仁の流れを汲む山門派と、第五代座主円珍の流れを汲む寺門派の二大門流でした。円仁、円珍の両師は、伝教大師の後継として日本天台宗を大いに発展させた二大巨頭として知られますが、両師を祖と仰ぐそれぞれの門流は、教義の理解の違いなどから袖を分かち、やがて二つの派閥による諍いへの火種となります。比叡山では円仁派の一門が次第に勢力を拡大し、それに従い円珍派は山を追われるように大津の三井寺へと去りました。叡山に残った円仁の門流が「山門派」、三井寺へと下った円珍の門流が「寺門派」と呼ばれるようになったのはこのためです。

当然のことながら、山内に残った山門派は比叡山での主流となります。それは当時の学風にも、大きな影響を与えることとなったでしょう。おそらくは蓮長も、その学風の中で学問を修めることとなるのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成27年1月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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