日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#040

比叡山での修学
その2

日本には人王三十代に佛法渡り始めて後は山寺種種なりと雖も、延暦寺を以て天子本命の道場と定め鎮護国家の道場と定む

真七言重勝劣(しんごんしちじゅうしょうれつ)
比叡山での修学

引き続き、比叡山延暦寺の成り立ちについて、今しばらくお話を致しましょう。

山門の興隆とともに、比叡山は朝廷との結びつきを次第に強めていきました。比叡山には「護持僧(ごじそう)」と呼ばれる祈祷師が撰ばれていました。護持僧は、祈祷の技法はもちろんのこと、徳にも勝れた高僧が選出され、その大切なお役目として歴代の天皇の一身安堵を祈願し奉るのです。これは朝廷とのつながりを強くする、大変重要な役割でした。

例えば、清和源氏の始祖、清和天皇の護持僧には、慧亮和尚(えりょうわじょう)、慈覚大師(じかくだいし)、相応(そうおう)和師尚(かしょう)などの高名な僧が連なり、他にも比叡山を代表する様々な高僧が、歴代天皇にお仕えする護持僧となっていきました。中でも特に名声を得たのが、東宮護持僧となった良源(りょうげん)です。慈恵大師(じえだいし)の名称を耳にされたことのある方も多いかと思いますが、何と言っても彼の有名な恵心僧都(えしんそうず)の師であり、比叡山中興の祖と呼ばれています。

良源の座主(ざす)在任中には、先月ご紹介をしました横川の根本(こんぽん)観音堂(かんのんどう)をはじめ、大講堂(だいこうどう)や文殊楼(もんじゅろう)など、数々の堂宇(どうう)が炎上してしまいました。更に承平七(九三七)年には、興福寺との法論にて興福寺代表であった義昭を打ち負かし、これが原因となって両寺は対立関係となります。それはやがて、私兵(僧兵)による争いを生み出す要因ともなるのです。

そのような厳しい状況の中ですが、良源は比叡山座主として二十六条式の制定をおこなうなど、積極的に山内の粛正を図り、消失前を凌ぐとも言われる程の伽藍再建を果たしました。また天暦八(九五四)年の楞厳(りょうごん)三昧院(ざんまいいん)の建立に対する援助など、当時の右大臣藤原師輔(ふじわらのもろすけ)をはじめとする藤原摂関家よりの支援も、大変厚いものでした。

比叡山での修学

このように、良源は朝廷や摂関家などの手厚い庇護を受け、比叡山を興隆させてゆくのです。先月号にて三塔制度について触れましたが、比叡山独自の三塔鼎立体制の確立は、実に良源の働きによって為されたと言っても過言ではないでしょう。

殊に比叡山に大きな権力をもたらすこととなったのは、朝廷より賜った「広学堅義(こうがくりゆうぎ)」の宣下です。「堅義」とは、今で言うところの国家試験のことです。この試験に合格することで、僧侶が諸国の国師や僧綱に就任することが出来ました。年に三回行なわれる審議の会場は、当初興福寺、薬師寺、大安寺と定められ、堅義の受験が許された人数も限られたものでした。そのために、奈良の諸大寺にて修行をする僧侶が、そのほとんどを占めていたのです。

良源は比叡山でもこの堅義が行えるよう朝廷に申請し、康保三(九六六)年、遂にその許可を得ることが出来ました。これによって励みを得た比叡山の学僧たちは、より一層の学問と修行に努め、それは比叡山、延いては天台宗の興隆に大いに寄与することとなるのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成26年12月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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