日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#039

比叡山での修学

三塔事。中堂。伝教大師の御建立。延暦年中御建立。王城の丑寅に当る。止観、遮那の二業を置く。本尊は薬師如来なり。桓武天皇の御崇重。天子本命の道場と云ふ。(中略)是を東塔と云ふ也。西塔。釈迦堂。宝幢院。伝教の御弟子、円澄の建立。横川。観音堂。楞厳院。慈覚建立

真言七重勝劣
比叡山での修学

ここで改めて蓮長(れんちょう)の学んだ比叡山についてお話を致しましょう。

伝教大師最澄は、延暦七(七八八)年、当地に一条(いちじょう)止観院(しかんいん)と呼ばれる草庵を結びました。これが今に続く比叡山延暦寺の始まりとされ、やがて中央に薬師堂、その左右には経蔵や文殊堂といった様式の伽藍、いわゆる根本中堂(こんぽんちゅうどう)が築かれ、これを総称して比叡山寺と呼ばれていました。中央の薬師堂に納められる薬師如来は、伝教大師が一刀三礼して刻んだと伝えられ、比叡山の秘佛中の秘佛とされています。最澄がそのご寶前に灯火を供えて以来、その明かりは一二〇〇年もの間絶えることなく灯り続け、「不滅の法灯」と呼ばれているのです。

後に五代座主(ざす)であった円珍(えんちん)が、仁和三(八八七)年に九間四面の堂として根本中堂を再建し、正面中央の五間が薬師堂、その南側二間に経蔵、北側は文殊堂といった寺観となりました。その後も寛文年間(一六二四~一六四三年)に改築がなされるのですが、円珍の定めた様式は現在まで伝わっていると言われていますので、蓮長が比叡山を訪れた時も、おそらくこのような根本中堂の姿であったことでしょう。

伝教大師の没後である弘仁一四(八二四)年に、嵯峨天皇より延暦寺の寺号が下賜されました。これによって、今に知られる比叡山延暦寺の名称となったのです。もっとも、現在でも寺号である「延暦寺」よりも、「比叡山」または「叡山」の山号の方が皆に親しまれているのはご存じの通りです。なぜ寺号が通称としてあまり用いられないかといえば、ある種独特なその形式にあるのかもしれません。

比叡山での修学

比叡山は「延暦寺」と称すものの、実は一般的にイメージするような単独の寺院ではありません。伝教大師は、弘仁九(八一八)年に日本国内の六カ所に宝塔院を建立しました。これを「六所宝塔」と呼びますが、その内の二塔が畿内の山城宝塔(比叡山の山城国境)と、近江宝塔(同山の近江国境)であり、「叡山の東西両塔」と呼ばれています。

後に前述の円珍が横川に根本如法塔を築き、これら三箇所を根本中堂を構える東塔、西塔中堂(釈迦堂)を有する西塔、根本観音堂のある横川として、三塔十六谷の内に数多の堂塔を構え、それらの総称を「比叡山延暦寺」とするのです。そしてこの三塔を中心として、比叡山の護持や大切な天台座主の選定などを協議する、独特の三塔制度が次第に整えられて行きました。それはまた、比叡山の特色でもある三塔の学風にも繋がって行くものでした。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成26年11月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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