日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#038

比叡山を目指して
(その二)

上宮太子の記に云く『我滅度二百余年に、仏法日本に弘まるべし』云云。伝教大師延暦年中に叡山を立て給ふ。桓武天皇は平の京都をたて給き。太子の記文たがはざる故なり

祈祷鈔
比叡山を目指して

蓮長(れんちょう)の目指した比叡山延暦寺は、琵琶湖を中心とした近江国(現在の滋賀県)に堂宇を構える大寺院です。滋賀と言えば、すぐお隣は帝のおわします京の都、房州からはかなりの長旅となります。

清澄を出た蓮長はまず馴染み深い鎌倉へ赴き、そこから改めて再出発をしたと言われています。もちろん詳しい道中記などは残されていませんが、時代を考えると、今のように整備された道がいくつもあるとは考えられません。鎌倉は稲村ヶ崎を出立し、江ノ島より茅ヶ崎と海沿いに進めば、やがて小田原付近で東海道に合流が出来ます。

東海道は当時からよく利用されていた街道でしたので、おそらくはそれを経て西を目指したのでしょう。

さて東海道とくれば、弥次さん喜多さんでお馴染みの五十三次が思い浮かびます。ですがそれは江戸時代に入ってからの話で、鎌倉時代の東海道は更に多い六十三次もの宿場があったそうです。街道の起点となるお江戸日本橋(もちろん当時は有りませんが・・・)から京の都までは、およそ五百キロの距離となります。当時の街道旅は、一日で八~九里(約三十~三十五キロ)を歩いたとされますので、十四~十七日をかけての旅となります。もっとも若き蓮長の健脚であれば、もっと早い到着だったかもしれません。

小田原よりは箱根路を経て駿河国を横断します。そこから遠江、三河を通過すれば、やがてお伊勢参りで有名な伊勢の国に到着です。伊勢を過ぎれば、もう間もなく近江の国へと入ります。日本三名橋として今なおその姿を残す、勢多(せた)(瀬田)の大橋を渡って大津を目指せば、旅の終着点、比叡山の参道口が間近となります。

比叡山を目指して

いよいよ延暦寺の大伽藍を目指して、蓮長は逸(はや)る気持ちで比叡山を登りました。求道心に満ち溢れた若い青年僧侶の足は、またたく間に樹木の間を駆け抜け、叡山の聖地である根本中堂を目にしたことでしょう。蓮長の眼前に広がる景色は、激論を交わす数多(あまた)の学僧ひしめく、日の本随一の学舎であったのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成26年10月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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