安房国清澄山住人 蓮長撰 一者小乗戒体。二者権大乗戒体。分為四門。三者法華開会戒体。法華涅槃之戒体小有不同。四者真言宗戒体(中略)仁治三年壬寅
戒体即身成佛義
仁治三(一二四二)年、清澄のお山には、鎌倉での修学を終え四年ぶりに故郷に戻った蓮長(れんちょう)の姿がありました。房州の片田舎にあって、修行中の身である僧侶たちにとっては、遠い新都の話など滅多に耳に出来るものではありません。帰郷間もない蓮長のもとには、土産話に心躍らせる若い僧侶が、我も我もと押しかけたことでしょう。
もちろん、蓮長が山内の僧侶にもたらしたのは、ただの土産話だけではありません。大聖人の伝記として知られる『元祖化導記(がんそけどうき)』には、「ある記にいわく初めに浄土宗を習うて本山に還り寺僧等にこれを教う」との記載もありますので、浄土宗や禅宗の教義など、鎌倉で学んだ最新の学問を山内の学僧たちに教示したものと思われます。
しかし、それらの学問を単純に「素晴らしい教え」として伝えたかは、いささか疑問が残るところです。それは、これまでにお話しした鎌倉修学による蓮長の心境を考えれば、皆さんにもご理解いただけることと思います。
だからといって、この時点でいきなり浄土や禅を批判したのかといえば、そういったわけでもなさそうなのです。何故ならば、後の立教開宗の折、持佛堂にて大衆の面前で諸宗の批を明かすと、初めてそれを耳にした聴衆は大変驚き、怒りを露わにした者たちに山を追われたとされています。立教開宗は十年も後の話ですので、もし既に痛烈な諸宗批判を行っていたのであれば、山を追われる身となっていたか、もしくは「ああ、また始まったか」となった筈です。
法華経の教えのみが衆生成佛の直道であるとの確信に至るためには、この後の比叡山留学など、まだまだ幾重にも学問を積まなければなりません。況(いわ)んや道を同じくする修行僧たちにその神髄を明かすことなど、いまだ若き蓮長には到底出来ぬことであったのかもしれません。
しかしながら、鎌倉での経験を通し、禅の修行も、念佛の信仰も、大衆を救うには至らないとの思いを抱いていたことは、既にお話しした通りです。そこで、鎌倉にて修めた学問の集大成として、その秘めた胸の内を明かすがごとく、自身初めてとなる論文『戒体即身成佛義(かいたいそくしんじょうぶつぎ)』を著述されたのです。それは鎌倉より帰郷して、半年後のことでありました。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生