日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#032
鎌倉での修学 その九

禅宗はまたこの便を得て持斎等となつて人の眼を迷かし、たつとげなる気色なれば、いかにひがほうもんをいゐくるへども、失ともをぼへず。禅宗と申す宗は、教外別伝と申して、釈尊の一切経の外に迦葉尊者にひそかにさゝやかせ給えり

撰時鈔
鎌倉での修学

蓮長は浄土宗の教義の修得と併せ、当時新進気鋭の存在として鎌倉武士の間で流行し始めていた禅についても、積極的に学んでいったと思われます。

禅宗と言えば、現在では栄西禅師の弘めた「臨済宗」と道元禅師の弘めた「曹洞宗」の二大宗派が有名です。但し両師の間には六十歳ほどの年の差があり、道元禅師は日蓮大聖人とほぼ同世代ですので、蓮長が鎌倉で学んでいた当時は、まだ臨済宗が主流でありました。現に鎌倉での禅宗の中心となるのが、以前ご紹介した大聖人のご文章にも見られる「寿福寺」であり、彼の山は栄西禅師によって開かれたお寺でした。

蓮長もおそらくはそこで禅を学んだことでしょう。年代的に考えますと、寿福寺では栄西の弟子である退耕行勇か、その弟子の了心に師事することとなりますが、残念ながら両者共に学問的に秀でた人物ではなかったと言われています。しかも当時の寿福寺は、完全なる臨済禅を旨とする寺院ではなく、天台や真言等の教義が複合して学ばれていたようなのです。

それと言うのも、鎌倉期における禅宗のスタイルは、「禅密兼修」と呼ばれる禅と密教を兼ねた特殊な存在でした。同じ鎌倉新佛教の開祖である法然上人や親鸞上人と比べ、栄西禅師は強く自流を押し通す性格ではなかったと言われています。禅師の南宋よりの帰国以来、次第に弘まる禅の教えに対して比叡山等の弾圧が厳しくなると、他宗との融合を計って生き残る道を選んだとされています。

鎌倉での修学

そのせいもあってか、蓮長が鎌倉にてこれだけ禅を学びながらも、後々の御書で禅宗についての記述でも、不思議と栄西禅師の名が一切見受けられません。栄西禅師は元々比叡山出身の僧であったことと併せ、前述のような理由もあって、天台の密教僧と見なしていたのではないかとも考えられます。

いずれにせよ、足かけ五年にわたる修学の日々も、蓮長の抱く疑問を解決してくれる碩学(せきがく)と出会うことは適いませんでした。鎌倉にて目にした浄土宗や禅宗の興隆も、本当に衆生を救うための佛教であるとは到底感じられなかったのです。

しかしそれは却って、蓮長に大きな希望を抱かせるものでもありました。我こそが釈尊の真実義をこの手に掴み、一切衆生を救済する佛の使いとならん、との偉大な使命を得る為の大切な経験でもあったのです。

若き蓮長の中で芽生え始めた使命を胸に、鎌倉での日々に別れを告げ、いよいよ故郷の人々が待つ清澄への帰山を決意するのでした。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成26年2月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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