日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#031
鎌倉での修学 その八

此等の経釈等を以て、当世日本国に引向うるに、汝等が挙る所の建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺、大仏殿、長楽寺、浄光明寺等の寺寺は、妙楽大師の指す所の第三の最も甚しき悪所なり

行敏訴状御会通(ぎようびんそじようごえつう)

鎌倉在中の蓮長(れんちょう)が、何処にて何を学んだのかについては、例によってその詳細を知る術はありません。もちろん天台宗にて出家した学僧ですので、天台系の寺院に身を寄せ学んでいたはずです。

蓮長の出身である清澄寺は、天台宗の中でも山門派と呼ばれる門派に属していました。当時の鎌倉天台諸山は、鶴岡八幡宮の別当に就任した隆弁(りゅうべん)に代表されるように、寺門派が大勢を占めていたようです。分派以来両派の間には確執も多く、それぞれの出身僧たちは常に対立した関係にありました。

ところが不思議なことに、後に比叡山留学中の蓮長は、対立する寺門派の総本山である三井の園城寺に赴いています。何らかの理由により、蓮長は両派の間を比較的自由に往き来できるような立場にあったようです。それ故に、寺門派が取り仕切る八幡宮でも、一切経の閲覧を許されたのです。

浄土、あるいは禅を学んだ過程に関しては、それこそ伝え聞くところでしか推し量れません。文頭にご紹介した「行敏訴状御会通」やその他色々な御書には、当時の鎌倉で隆盛を誇った各宗の寺院が見受けられ、時にはその寺を代表する僧侶の名も挙げられています。蓮長はこれらの師僧の講義を見聞し、または直接その門を叩いては教えを請うたのではないでしょうか。

鎌倉での修学

歴史的な根拠は浅くなりますが、日蓮大聖人の伝絵である「註画讃(ちゅうがさん)」に依れば、浄土宗の大阿という僧より教えを学んだとされています。その名はかつて法然上人が記した「七箇條起請文」に連署として見受けられますが、人物としての詳細は定かではないようです。

また材木座佐助谷の蓮華寺にて、当時盛んに浄土の教えを弘めていた記主(きしゅ)[(然阿(ねんな)]良忠(りょうちゅう)より学んだとも言われています。良忠は関東に浄土宗を弘めたとされる高名な僧で、浄土宗第三祖と称えられる念佛の大家です。はたして如何なるコネがあれば、そのような大人物に直接教えを受けられるのか、大変不思議なことですが、ただ教えを受けるのみならず、一説では良忠より『撰択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を与えられたと言いますから、驚くばかりです。

いずれにせよ、以前にご紹介した『南条兵衛七郎殿御書(なんじょうひょうえしちろうどのごしょ)』にて、「法然善導等が書きおきて候ほどの法門は、日蓮等は十七、八のときより知りて候き」と世の念佛僧等を看破された背景を考えますと、この鎌倉での修学期において、専修念佛に関する真義を修得なされたのでしょう。それを成し遂げるには、相当な知識を持った高僧よりの手解きを受けたことは、間違いないものと思います。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成26年1月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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