日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#015
清澄寺ご修学
その一

「但し各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします」

(報恩鈔)

さて先月まで長々と寄り道を致しましたが、ここまでお話した混沌とした時代背景の中、入山を果たした善日麿(ぜんにちまろ)は薬王丸(やくおうまる)と名を改め、いよいよ清澄での修学の日々が始まります。

皆さんがよく目にするご一代記などでは、清澄のご入山がそのままご出家として語られがちです。確かに清澄寺といえば、建長五年の立教開宗、つまりお題目始唱のご聖地と並び、日蓮さま出家得度の霊場として有名です。しかしご出家のお歳をよくよく考えてみると、ご入山から実に四年の歳月を経ているのです。同時代の鎌倉諸宗の開祖たちは、ほぼ入寺と同時に出家を果たす、言い換えれば「出家をするために」お山へ上がられたと言えます。それを考えると、いささかこのご出家までの年月には疑問が残ります。

清澄寺ご入山

やはりここは「勉学のために」入山されたのが、当初の目的であったと考えるのが妥当なところでしょうか。乳母雪女(ゆきめ)より十分な初等教育を施された善日麿は、更なる高等教育を受けるために、清澄入山の道が既に用意されていたのでしょう。

但しそれは、小学校から中学・高校へ進むような、生易しいものではありません。我が子に寄せるご両親の期待は元より、早くよりその類い希なるご気質を見いだされた師、道善御房(どうぜんごぼう)や、幼き子に救世の希望を託された、領家の尼始め外護者の人々の思いを、我が「所願」として一身に背負い、末法の世に一筋の光明をもたらすための智者たらんお覚悟があってのご修学でした。

それ故に、帝王学とも呼べるような知識を習得するためには、佛法のみならずあらゆる学問を修めなければなりません。ご入山間もなき薬王丸は、まず手始めに中国の古典や史書、そして儒学をことごとく学ばれていったことと思われます。もちろん今となっては清澄で過ごされた日々の子細を知る術はありませんが、後のさまざまなご述作中での自在なる引用を拝見すれば、この頃に諸学への深い知識を身に付けられたことは明らかです。

その折に、薬王丸を直々に教え導いたのが、冒頭の『報恩鈔』に「各々二人」と挙げられた「浄顕房(じょうけんぼう)」と「義城(ぎじょう)(浄)房(ぼう)」の存在なのです。このお二方は後に日蓮さまのお弟子となられますが、入山当初は兄弟子(あにでし)として学問は勿論のこと、山内での行儀作法一切の手解きをしていったことでしょう。そのお二人の献身的な教育によって、次第に深き学問の道へ進むことの出来た恩を感じればこそ、「幼少の師匠」とのお言葉となったのです。

浄顕房と義浄房のお二人の名は、さまざまな御書に散見されることからも、後々も非常に重要な役割をお持ちの方々なのですが、それ以前にあまり語られることのない大変興味深いエピソードもあるのです。 と、またまた寄り道を予感させつつ、続きは次号をお楽しみに。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成24年7月号に掲載された内容です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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