日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#014
清澄寺ご入山
その六

「隠岐(おき)の法皇は天子也。権(ごん)の大夫(だいゆう)(北条義時)殿は民ぞかし。子の親をあだまんをば、天照太神うけ給ひなんや。所従が主君を敵とせんをば、正八幡は御用(おんもち)ひあるべしや」

(種々御振舞御書)

鎌倉幕府の成立によって、いよいよ治世にまでその力を及ぼし始めた武士に対し、当然のことながら本来の施政者であった朝廷勢力は不満を募らせてゆきます。そしてその不平が頂点に達した承久三年、遂に「承久の乱」が勃発したのです。そもそもの発端となるのは、時の上皇である後鳥羽院が発した鎌倉倒幕の院宣(いんぜん)(上皇の下す命令)なのですが、時勢を楽観視していた朝廷側の思惑に反し、この院宣はまったくと言ってよい程その効力を発揮しませんでした。今や落ち目となった朝廷側に与(くみ)する武士はほとんどなく、圧倒的な勢力の鎌倉方に返り討ちとなってしまうのでした。

清澄寺ご入山

そして驚くことに、首謀者とされる後鳥羽上皇始め多くの皇族方が、流罪という大変厳しい処分を受けることとなったのです。武士が天子さまを流罪に処すなど、文字通り神をも恐れぬ所業、臣下が主君に仇を為すなど、本来あってはならぬことが、この後江戸の世に至るまで「下克上」の名の下に正当化されてゆくのです。

この承久の乱より程なくしてお生まれになった日蓮さまは、かって乳母雪女(ゆきめ)によって施された帝王学とも言える高等教育の中で、当世の世情、殊に公武の争いの有様を縷々(るる)お聞きになったことでしょう。人心は乱れ道理の通らぬ末法の世への憤り、そして神佛が篤く守護する筈のこの国が、何故乱れゆくかとの深き疑問が、幼き日蓮さまの心中深くに刻まれていったことは間違いありません。

やがてその疑問への解決の道を求めるべく、清澄山を第一歩とするご研鑽の日々が始まるのです。それはまた、領家の尼を始め日蓮さまを支えられた多くの方々の、切なる願いを背負ってのことでもありました。

この清澄寺ご入山に当たって日蓮さまが抱かれた「所願」とは、ご自身はもとより、沢山の方々の思いが籠められた、末法救済の「大願」であったのです。

イラスト 小川けんいち

小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教学部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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